天気晴朗ナレド…。なんて、もうメソメソはやめ。鈴木志郎康さんのページに「辻征夫アルバム」。




2000年1月20日の句(前日までの二句を含む)

January 2012000

 缶コーヒー膝にはさんで山眠る

                           津田このみ

語「山眠る」は、静かに眠っているような雰囲気の山の擬人化。そう聞かされて「なるほどねえ」と思い、思っただけで納得して、もしかすると一生を過ごしてしまうのが、私のような凡人である。でも、世の中にはそんな説明だけでは納得せずに、「だったら、どんなふうに眠っているのだろう」と好奇心を発揮する変人(失礼っ)もいる。古くは京都の東山のことを蒲団を着て寝ているようだと言った人からはじまって、現代の津田このみにいたるまで、自分の感覚で実証的にとらえないと気が済まない人たちだ。もちろん、こういう人たちがいてくれるおかけで、我ら凡人(これまた、読者には失礼か)の感受性は広く深くなってきたのである。感謝しなければ罰があたる。缶コーヒーを膝に挟むのは、ずっと手に持っているととても熱いからだ。最近の若者は地べたに座りこんで飲んだりするから、熱いととりあえず膝に挟むしかない。そんな「ヂベタリアン」の恰好で、山が眠っているというのだ。すなわち、安眠をしていてるとは言えない山を詠んだのが、この句の面白さ。何かの拍子にこの山の膝から缶が転げ落ちたら、この世は谷岡ヤスジ流に「全国的にハルーッ」となるのである。はやく転げ落ちろ。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


January 1912000

 強運の女と言はれ茎漬くる

                           波多野爽波

語は「茎漬(くきづけ)」で冬。大根や蕪の茎や葉を樽に入れ、塩を加えて漬けるだけの簡単な漬物だ。食卓に上がると、その酸味がいっそうの食欲をそそる。じわりとした可笑しみのある句。主婦が茎を漬けているにすぎない写生句だが、わざわざ主婦を「強運の女」としたところが、爽波一流の物言いだ。つまり、わざわざ「強運の女」を持ち出すこともないのに、あえて言ってしまう。そうすると、平凡な場面にパッと光が差す。日常が面白く見える。いつもこんなふうに日常を見ることができたら、さぞや楽しいでしょうね。そして重要なのは、作者が「強運の女」を揶揄しているのでもなければ皮肉を言っているのでもない点だ。ここには、そんな底意地の悪さなど微塵もない。むしろ、たいした「強運」にも恵まれていない女に、「それでいいのさ」と微笑している。爽波は「写生の世界は自由闊達の世界である」と書いているが、その「自由闊達」は決して下品に落ちることがなかった。ここが凄いところ。余人には、なかなか真似のできない句境である。花神コレクション『波多野爽波』(1992)所収。(清水哲男)


January 1812000

 粕汁にぶつ斬る鮭の肋かな

                           石塚友二

は「あばら」。文句なしに美味そうだ。妙に郷愁的情緒的に詠んでいないところもよい。ワイルドな味わいの句。よい映画批評は読者を映画館に誘うが、それと同じように、こういう句を読むと無性に粕汁が食べたくなる。以上で、句については何も書くことなし。これで、おしまい。さて、いつか触れたような気もするが、私は日本酒アレルギーだ。ビールならいくらでも飲めるのに、日本酒はからきし駄目。猪口一二杯で、その場はともかく、翌朝かならず頭痛に悩まされる。だから、正月の他家訪問と田舎の結婚披露宴出席とは苦手である。いずれの場合も、日本酒が出てくる。おめでたい席だから、口をつけないわけにはいかない。ビールのほうがよいなどと無礼なことも言えないので、観念して飲む。そんな私が、粕汁を食べるとどうなるか。生体実験を重ねた結果、やはり翌朝にかすかな反応が出る。風邪を引いても頭痛とは無縁の体質が、少しゆがむのだ。もっとも、奈良漬屋の前を通っただけで顔が赤くなる人もいるそうだから、まだマシではあるけれど……。困ったことに、粕汁の味は好きときている。今夜、この「禁断の味」を賞味すべきかヤメにすべきか。とんでもない句を読んぢまった。と、普段ならそうなるところだが……。(清水哲男)




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