食欲がない。心の切り換えが必要だ。楽しい句を読もう。「薬局」みたいな句集はないものか。




2000ソスN1ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1812000

 粕汁にぶつ斬る鮭の肋かな

                           石塚友二

は「あばら」。文句なしに美味そうだ。妙に郷愁的情緒的に詠んでいないところもよい。ワイルドな味わいの句。よい映画批評は読者を映画館に誘うが、それと同じように、こういう句を読むと無性に粕汁が食べたくなる。以上で、句については何も書くことなし。これで、おしまい。さて、いつか触れたような気もするが、私は日本酒アレルギーだ。ビールならいくらでも飲めるのに、日本酒はからきし駄目。猪口一二杯で、その場はともかく、翌朝かならず頭痛に悩まされる。だから、正月の他家訪問と田舎の結婚披露宴出席とは苦手である。いずれの場合も、日本酒が出てくる。おめでたい席だから、口をつけないわけにはいかない。ビールのほうがよいなどと無礼なことも言えないので、観念して飲む。そんな私が、粕汁を食べるとどうなるか。生体実験を重ねた結果、やはり翌朝にかすかな反応が出る。風邪を引いても頭痛とは無縁の体質が、少しゆがむのだ。もっとも、奈良漬屋の前を通っただけで顔が赤くなる人もいるそうだから、まだマシではあるけれど……。困ったことに、粕汁の味は好きときている。今夜、この「禁断の味」を賞味すべきかヤメにすべきか。とんでもない句を読んぢまった。と、普段ならそうなるところだが……。(清水哲男)


January 1712000

 いざさらば雪見にころぶ所迄

                           松尾芭蕉

国の方には申しわけないが、東京などに住んでいると、降雪というだけで心がざわめく。はっきり言うと、うれしくも浮き浮きしてくる。背景には、いくら降ったところでたいしたことにはならないという安心感があるからだ。せいぜい、数時間ほど交通機関が混乱するくらい。全国的にもっと降ったであろう江戸期にしても、江戸や京の町の人たちは、花見や月見のように「雪見」を遊山のひとつとして楽しんでいたようだ。やはり、うれしくなっちゃつたのである。現代では「雪見」の風習はすたれてはいる。が、昔の人と同じ心のざわめきは残っており、居酒屋などで「雪見酒」と称する遊び心の持ち合わせは失われていない。ただ、昔の人と違うのは、雪を身体で受け止められるか否かの点だろう。「雪見にころぶ」というのは、今日の私たちが誤ってスッテンコロリンとなる状態ではありえない。もっともっと深い雪のなかで「雪見」と洒落れるのには、必ず「ころぶ」ことが前提の心構えを必要とした。その「ころぶ」ことをも含めた「雪見」の楽しさであった。なるほど「いざさらば」なのである。「いざさらば」は滑稽にも通じているが、真剣にも通じている。身体ごと雪を体験した時代の人の遺言のような句だ。(清水哲男)


January 1612000

 春雨や頬かむりして佃まで

                           辻貨物船

節に外れた句の掲載をご寛容いただきたい。「貨物船」は、一昨日急逝した詩人にして小説家・辻征夫の俳号である。享年六十歳。下町をこよなく愛した「ツジ」(と、私は呼び捨てにしていた)らしいユーモラスでもあり、ちょっぴり哀しくもある句だ。詩や小説とはちがって、決して上手な俳句作りじゃなかったけれど、我らが「余白句会」には欠かせない存在だった。いつも彼の周辺には、春風のように暖かく人を包む雰囲気が漂っていた。その「ツジ」が「頬かむり」もしないで、あろうことか忽然と姿を消しちゃったのだ。「これが飲まずにいられよか」と、いま私はビールを飲みながら、この原稿を書いている(15日午前10時)。この数行を書くのに一時間。「まだ中有にいるはずのツジよ、あんまりオレを混乱させるなよ。キミはすぐにばれる嘘つきの名手だったから、今度のことも、すぐにばれてほしいよ。もう一度この世に戻って、みんなに挨拶くらいして行けよ」。昨夜遅くに八木幹夫から訃報を知らされたときには、びっくりして涙も出なかった。でも、いまは違う。涙がじわりと滲み出てきてしまう。キミが元気だったら参加するはずの新年会が、今夜ある。元気でなくてもいいから、会には必ず出てこいよ。きっと、だぜ。……なんて、いくら書いても空しい。世紀末を生きた凄腕抒情詩人の冥福を祈る。そう言うしか、他に言葉はない。合掌。『今はじめる人のための俳句歳時記』(角川書店・1997)所収。(清水哲男)




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