辻征夫の急逝にはまいった。昨年の伊藤聚さんも一月だった。すなわち、良き人は先に逝く。




2000ソスN1ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1612000

 春雨や頬かむりして佃まで

                           辻貨物船

節に外れた句の掲載をご寛容いただきたい。「貨物船」は、一昨日急逝した詩人にして小説家・辻征夫の俳号である。享年六十歳。下町をこよなく愛した「ツジ」(と、私は呼び捨てにしていた)らしいユーモラスでもあり、ちょっぴり哀しくもある句だ。詩や小説とはちがって、決して上手な俳句作りじゃなかったけれど、我らが「余白句会」には欠かせない存在だった。いつも彼の周辺には、春風のように暖かく人を包む雰囲気が漂っていた。その「ツジ」が「頬かむり」もしないで、あろうことか忽然と姿を消しちゃったのだ。「これが飲まずにいられよか」と、いま私はビールを飲みながら、この原稿を書いている(15日午前10時)。この数行を書くのに一時間。「まだ中有にいるはずのツジよ、あんまりオレを混乱させるなよ。キミはすぐにばれる嘘つきの名手だったから、今度のことも、すぐにばれてほしいよ。もう一度この世に戻って、みんなに挨拶くらいして行けよ」。昨夜遅くに八木幹夫から訃報を知らされたときには、びっくりして涙も出なかった。でも、いまは違う。涙がじわりと滲み出てきてしまう。キミが元気だったら参加するはずの新年会が、今夜ある。元気でなくてもいいから、会には必ず出てこいよ。きっと、だぜ。……なんて、いくら書いても空しい。世紀末を生きた凄腕抒情詩人の冥福を祈る。そう言うしか、他に言葉はない。合掌。『今はじめる人のための俳句歳時記』(角川書店・1997)所収。(清水哲男)


January 1512000

 春巻きを揚げぬ暗黒冬を越え

                           摂津幸彦

者には「暗黒の黒まじるなり蜆汁」を含む「暗黒連作」があり、これは最後に置かれた句。引用句からもわかるように、ここで「暗黒」は単に暗闇の状態を言う言葉ではなく、物質化した実体のように扱われている。「暗黒と鶏をあひ挽く昼餉かな」では、そのことが一層はっきりする。「暗黒」は、いわば暗闇のお化けなのだ。したがって「冬を越え」の主語は「暗黒」という実体である。軽い意味ではようやく暗い冬の季節が終わりに近づいた安らぎの気持ち、重い意味では自身の内面の暗闇が晴れようとしている安堵に向かう感情。それらの心持ちが、春巻きを揚げる行為のうちにというよりも、「春巻き」という陽性な名前を持つ食べ物があることに気がついたことのなかに込められている。春巻きを揚げている厨房の窓から、すうっと「暗黒」が冬山の向こうへと遠ざかっていくのが見えるような、そんな実体感を伴う句だ。でも、句への発想はふとした思いつきからでしかない。言葉遊びの世界。下手をすれば安手で読めたものではない作品になるところを、徳俵に足をかけ、作者はぐっと踏みこたえている。この踏みこたえぶりこそが、いつだって摂津幸彦の技の見せ所であった。『姉にアネモネ』(1973)所収。(清水哲男)


January 1412000

 一畳の電気カーペットに二人

                           大野朱香

か暖かそうな句はないかと探していたら、この句に行き当たった。侘びしくも色っぽい暖かさだ。その昔に流行した歌「神田川」の世界を想起させる。あの二人が風呂屋から戻ると、アパートではこういう世界が待っているような……。小さな電気カーペットだから、二人で常用するには狭すぎる。日ごろは女の領分である。そこに、すっとさりげなく男が入ってきた。そんな暖かさ。このとき、男はわざわざ暖をとりに入ってきたのではあるまい。そこがまた、作者には暖かいのだ。それでよいのである。従来のカーペット(絨緞・絨毯)だと、こういう世界は現出しようもない。生活のための新しい道具が、新しいドラマを生んだ好例だろう。俳句は、作者が読者に「思い当たらせる」文学だ。その手段の最たるものは季語の使用であるが、その季語も時代とともにうつろっていく。「絨毯(じゅうたん)」でいえば、柴田白葉女に「絨毯の美女とばらの絵ひるまず踏む」がある。この句のよさは、本当は踏む前に一瞬「ひるんだ」ところにあるのだけれど、若い読者に理解されるかどうか。電気カーペットと同じくらいに、絨毯の存在も身近になってしまった。『21世紀俳句ガイダンス』(1997)所載。(清水哲男)




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