大手出版社が続々と電子出版に参入の構え。物質としての本に生き残るジャンルは何だろう。




2000ソスN1ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1412000

 一畳の電気カーペットに二人

                           大野朱香

か暖かそうな句はないかと探していたら、この句に行き当たった。侘びしくも色っぽい暖かさだ。その昔に流行した歌「神田川」の世界を想起させる。あの二人が風呂屋から戻ると、アパートではこういう世界が待っているような……。小さな電気カーペットだから、二人で常用するには狭すぎる。日ごろは女の領分である。そこに、すっとさりげなく男が入ってきた。そんな暖かさ。このとき、男はわざわざ暖をとりに入ってきたのではあるまい。そこがまた、作者には暖かいのだ。それでよいのである。従来のカーペット(絨緞・絨毯)だと、こういう世界は現出しようもない。生活のための新しい道具が、新しいドラマを生んだ好例だろう。俳句は、作者が読者に「思い当たらせる」文学だ。その手段の最たるものは季語の使用であるが、その季語も時代とともにうつろっていく。「絨毯(じゅうたん)」でいえば、柴田白葉女に「絨毯の美女とばらの絵ひるまず踏む」がある。この句のよさは、本当は踏む前に一瞬「ひるんだ」ところにあるのだけれど、若い読者に理解されるかどうか。電気カーペットと同じくらいに、絨毯の存在も身近になってしまった。『21世紀俳句ガイダンス』(1997)所載。(清水哲男)


January 1312000

 ふるさとは風の中なる寒椿

                           入船亭扇橋

木忠栄個人誌「いちばん寒い場所」(30号・1999年12月刊)で知った句だ。「品のいい職人さんが羽織を着て、そのまんま出てきたような涼しい姿」とは、落語好きの八木君の扇橋(九代目)評。扇橋の俳号は「光石」で、高校時代には水原秋桜子「馬酔木」の例会に出ていたというから、筋金入りだ。この人の故郷は知らないが、望郷の一句だと思われる。故郷を思い出し、その姿を彷彿させるというときに、人はディテールにこだわるか、逆に細々した具体物を捨ててしまう。句は後者の例で、故郷は「風の中なる寒椿」の自然に代表され、人間の匂いは捨象されている。このことから読者は、詠まれている「ふるさと」の寒々とした風景にリリカルに出会い、次には自身の故郷の冬のありようへと心が移っていく。望郷の念やみがたくというのでもなく、時に人は季節に照応して、このように故郷を偲ぶ。道具立ての揃った「うさぎ追いしかの山……」の唱歌よりも、モノクロームの世界にぽちりと紅い椿を置いてみせたこの句のほうが鮮やかなのは、俳句的抽象化の力によるものだろう。大人の句だ。(清水哲男)


January 1212000

 穴あらば落ちて遊ばん冬日向

                           中尾寿美子

に落ちたことで、世界的に有名になったのは「不思議の国のアリス」だ。日本で知られているのは、昔話「おむすびころりん」に出てくるおじいさん。穴に落ちたことでは同じだけれど、両者の心持ちにはかなりの違いがあるようだ。アリスの場合には「不本意」という思いが濃く、おじいさんの「不本意」性は薄い。アリスは不本意なので、なにかと落ちたところと現世とを比べるから、そこが「不思議の国」と見えてしまう。一方、おじいさんはさして現世を気にするふしもなく、暢気にご馳走を食べたりしている。この句を読んで、そんなことに思いが至った。作者もまた、現世のあれこれを気にかけていない。一言でいえば、年齢の差なのだ。このときに、作者は七十代。「穴掘れば穴にあつまる冬の暮」という句も別にあって、「穴」への注目は、ごく自然に「墓穴」へのそれに通じていると読める。ひるがえって私自身は、どうだろうか。まだ、とてもこの心境には到達していないが、わかる気はしてきている。そういう年齢ということだろう。遺句集『新座』(1991)所収。(清水哲男)




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