成人式は欠席した。後日、役場から濃緑色の表紙の「成人手帳」を送ってきたような記憶あり。




2000ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1012000

 一番寺の鐘乱打成人の日の老人

                           原子公平

者、六十代の句。「秩父行」の前書からすると、実景だろう。成人の日を祝って鐘を撞く風習。撞いているのは老人で、べつに意図して「乱打」しているわけでもなかろうが、六十代の原子公平にはそのように聞こえたということだ。このとき「乱打」は実際の現象というよりも、聞き手の胸中に生起したイリュージョンだと思う。若者たちの門出を寿ぐためだから、撞き方のテンポは早い。それが「乱打」と聞こえたのは、老人としてのおのれの若者に対する思いが、千々に乱れているからである。その思いは、なにも今日成人の日を迎えた人たちに対するそれだけではないのであって、みずからの過去の若者、そして現在も抱えている若者意識、そうしたところへの思いが早鐘のように心を乱打しているのだ。現在の若さへの賛嘆、羨望、嫉妬、失望……。そして、自身の若き日への自負、誇り、悔恨、失意……。そうしたものが、儀礼的形式的に撞かれているはずの鐘の音に乗って聞こえてくる。いやでも「老い」を自覚させられはじめた年代ならではの一句だ。そこで口惜しいのは、私にも作者の苛立ちがよくわかってしまうことである。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


January 0912000

 暖炉列車 津軽まるごと暖める

                           野宮素外

炉列車は、客室内でストーブを焚いて走る列車のこと。燃料は石炭だ。かつての雪国ではお馴染みだったストーブ列車も、暖房システムが変化した結果、現在では青森県の「津軽鉄道」にしか残っていない。毎年十一月十六日から三月十五日まで、津軽五所川原と津軽中里間の二往復だけを走っている。はっきり言って、観光客用だ。……と、これらの知識とこの句とは、発売中の「アサヒグラフ」(2000年1月14日号)に載っている宮本貢さんのレポートから仕入れた。暖冬の東京で冒頭の大きな見開き写真を見ていると、外国の風景のようにも見えてきてしまう。団体客が入ると二両から三両編成になるというが、撮影日は大雪だったので、たった一両で走っている。この写真が、実に良い。列車の姿は小さくて消え入りそうに頼りないのだけれど、乗車している人はみな句のような心持ちになっている。そういうことが、写真を見ているとよく伝わってくる。「津軽まるごと暖める」は、大袈裟ではなく、ごく自然な発想だということが納得される。句は乗客から募集したものだというが、作者の名前から推察してズブの素人ではあるまい。一字空きになっているのは、漢字の詰め合わせを嫌ったためだろう。(清水哲男)


January 0812000

 凧の空女は男のために死ぬ

                           寺田京子

臘から、この句を反芻しては解釈に呻吟してきた。わかりやすいようでいて、わかりにくい。作者が、凧揚げの空を見ているところまではわかる。奴凧、武者絵凧、あるいは「龍」の文字凧など。揚げているのはほとんどが男たちだから、「凧の空」は男の世界だ。でも、なぜ「女は男のために死ぬ」という発想につながるのだろうか。もつれた凧糸をほどくように時間をかけてみても、根拠はよくわからない。私の乏しいデータによると、作者は十代で死も覚悟せざるをえない胸部の病におかされたという。したがって「死」の意識はいつも実際に身近にあったわけで、たとえば演歌のように演技的に発想しているのではないことだけは確かだろう。だが、なぜ「男のために」なのか。十日間ほど考えているうちに得た一応の結論は、ふっと作者が漏らした吐息のような句ではないかということだった。字面から受ける四角四面の意味などはなく、ふっとそう感じたということ。男社会を批判しているのでもなく、ましてや男に殉じることを認めているのでもなく、そうした社会意識からは遠く離れて、ふっと生まれた感覚に殉じた一句。試験の答案としては零点だろうけれど、人は理詰めでは生きていないのだから、こういう読み方があってもいいのかなと、おっかなびっくりの鑑賞でした。『鷲の巣』(1975)所収。(清水哲男)




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