蟄」隱槭′蜃ァ縺ョ句

January 0812000

 凧の空女は男のために死ぬ

                           寺田京子

臘から、この句を反芻しては解釈に呻吟してきた。わかりやすいようでいて、わかりにくい。作者が、凧揚げの空を見ているところまではわかる。奴凧、武者絵凧、あるいは「龍」の文字凧など。揚げているのはほとんどが男たちだから、「凧の空」は男の世界だ。でも、なぜ「女は男のために死ぬ」という発想につながるのだろうか。もつれた凧糸をほどくように時間をかけてみても、根拠はよくわからない。私の乏しいデータによると、作者は十代で死も覚悟せざるをえない胸部の病におかされたという。したがって「死」の意識はいつも実際に身近にあったわけで、たとえば演歌のように演技的に発想しているのではないことだけは確かだろう。だが、なぜ「男のために」なのか。十日間ほど考えているうちに得た一応の結論は、ふっと作者が漏らした吐息のような句ではないかということだった。字面から受ける四角四面の意味などはなく、ふっとそう感じたということ。男社会を批判しているのでもなく、ましてや男に殉じることを認めているのでもなく、そうした社会意識からは遠く離れて、ふっと生まれた感覚に殉じた一句。試験の答案としては零点だろうけれど、人は理詰めでは生きていないのだから、こういう読み方があってもいいのかなと、おっかなびっくりの鑑賞でした。『鷲の巣』(1975)所収。(清水哲男)


April 0242000

 うまや路や松のはろかに狂ひ凧

                           芝不器男

事としての凧揚げの季節は、地方によってまちまちだ。長崎は四月、浜松は五月など。俳句では春の季語としてきた。句の凧は行事には無関係で、たまたま揚がっていた凧を目撃している図。「うまや路(じ)」は「駅路」と書き、宿場のある街道のこと。作句された場所も年代もわかっており、不器男の住んだ伊予の山峡沿いの街道で、1928年(昭和三年)に詠まれた句である。宇和島からの物資輸送に使われた街道筋の宿場町だ。風が強い日だったのだろう。街道の松の木のはるか彼方に、上下左右に激しく動き回る凧が小さく見えている。悠々と揚がっていれば、いかにも春らしいのどかな光景だが、凧が狂っているので、作者は落ち着かない。のどかなはずの光景を、遠くの凧が引っ掻いている。いささかオーバーに言えば、作者の近代的不安を極めて古典的な表現様式で言い当てた句と解釈できる。自然に「絶妙の技」という言葉が浮かんでくる。この句を得た二年後に、不器男は二十七歳にも満たぬ若さで亡くなった。作句期間も四年ほどという短さ。その余りある才を惜しんで、没後四年目に横山白虹が限定三百部の『不器男句集』を編み、百七十五句が収められた。(清水哲男)


February 2822001

 如月も尽きたる富士の疲れかな

                           中村苑子

季の富士山は積雪量が多く、ことのほか秀麗な姿を見せているそうだ。私の住む三鷹市あたりからも昔はよく見えたようだが、いまは簡単には見えなくなった。近くの練馬区富士見丘(!)からも、見えなくなって久しい。それはともかく、ご承知のように、季語には山を擬人化した「山眠る」「山笑ふ」がある。卓抜な見立てだが、しかし同じ山でも、富士山だけには不向きだなと、掲句を読んで気がついた。冬の間の富士山は、どう見ても眠っているとは思えない。むしろ、眼光炯々として周囲を睥睨しているかのようだ。肩ひじも張っている。だから、寒気の厳しい「如月」が終わるころともなると、さすがに疲れちゃうのである。春霞がかかってきて、いささかぼおっとした風情を見て、作者はそう感じたのだ。この感覚は、寒い時季をがんばって乗りきってきた人間の「疲れ」にも通じるだろう。「疲れ」からとろとろと睡魔に引き込まれていくかのような富士山の姿はほほ笑ましくもあるが、どこかいとおしくも痛ましい。「疲れ」という表現には、微笑に傾かずに痛ましさに傾斜した作者の気持ちがこめられているのだ。言わでものことだが、痛ましいと思う気持ちは愛情に発している。作者は、今年一月五日に亡くなった。享年八十七歳。振り返ってみれば、中村苑子は徹底して痛ましさを詠みつづけた希有の俳人であったと思う。しかも、自己には厳しく他には優しく……。このことについては、折に触れて書いていきたい。「凧なにもて死なむあがるべし」。「凧」は「たこ」と読まずに、この場合は「いかのぼり」と読む。新年ではなく春の季語。『水妖詞館』(1975)所収。(清水哲男)


April 1642001

 逸る眼をもて風待ちの武者絵凧

                           櫛原希伊子

潟は「見附の凧合戦」と、自注にある。私は、残念なことに凧合戦を見たことがない。いつだったか、五月に行われる浜松の凧揚げの話を現地で聞いたことがあり、一度その勇壮な模様を見たいと思っていたので、掲句に目がとまった。凧には風が必要だから、よい風が吹いてくるのを待っている。風待ちの状態で、実際に血気に「逸(はや)る眼」をしているのは揚げ手の男たちだが、観衆には大凧に描かれた「武者」の眼に、彼らの切迫した気持ちが乗りうつっているように見えるのだ。つまり、ここで凧の「武者」は単なる絵ではなく、いざ出陣の生きた武士なのである。観衆にも、だんだん緊張感が高まってくる。自注にはまた「振舞酒が出た」と記されていて、適度の酒は雑念を払い集中力をうながすから、いやが上にも気分は昂揚せざるを得ない。そんな会場全体の時空間の雰囲気を、ばさりと大きく一枚の「武者絵」の「眼」で押さえたところが、作者の腕の冴え、技術の確かさを示しているだろう。それにしても「逸」という言葉には含蓄がある。原義は「弓なりに曲がる」という意味だそうだが、となれば「逸る」とは常に目的からはずれて「逸(そ)れる」危険性をはらんだ精神状況だ。「逸する」などとも言い、とかく「逸」にはマイナス・イメージの印象があるが、そうではない。何事かをなさんとする時の緊張状態を指している。だから、弓なりになりながら「一か八か」と短絡してしまうと、緊張感が「逸れて」勝負事にはたいてい負ける。蛇足ながら、ハワイのテレビはよく日本の時代劇映画を放映しているが、「一か八か」を翻訳してテロップで「ONE OR EIGHT」とやったことがある。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


March 0732004

 凧とぶや僧きて父を失いき

                           寺田京子

語は「凧(たこ)」で春。子供たちは正月に揚げるが、これには「正月の凧」という季語が当てられる。単に「凧」という場合には、各地の年中行事で主に大人の揚げるものを指すのが一般的だ。作者は札幌生まれ。17歳のときに胸部疾患罹病、宿痾となる。「少女期より病みし顔映え冬の匙」、「未婚一生洗ひし足袋が合掌す」。しかも、より不幸なことには、杖とも柱とも頼んだ母親が早世してしまい、父親との二人暮らしの日々を余儀なくされたのだった。「雪降ればすぐに雪掻き妻なき父」。その父親が亡くなったときの句だ。このような事情を知らなくても、掲句には胸打たれる。順序としては、亡くなった人がいるから「僧」が来る。しかし、句では逆の言い方になっている。「僧」が来てから、「父」を失ったことに……。この逆順が示しているのは、あくまでも父親を失ったことを認めたくない心情である。認めたくない、夢ならば醒めてほしいと願う心は、しかし僧侶が訪れてきたことによって、無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。父の死を現実として受け止めざるを得ない。ああ、父は本当にいなくなってしまったのだ。と、作者は呆然としている。折から、何か大きな行事のためなのだろう。よく晴れた空には「凧」が悠々と天上に舞い上がっており、世間は全て世は事も無しの風情である。作者は、いつまでも空「とぶ」凧を慟哭の思いで、しかもいわば半睡半覚の思いで見つめていたことだろう。父の非在と凧の実在。この取り合わせによる近代的抒情性が、見事に定着結晶した名句である。なお、作者は1976年に54歳で他界した。「林檎甘し八十婆まで生きること」。『日の鷹』(1967)所収。(清水哲男)


February 1922006

 幕末の風吹き荒れむ奴凧

                           近三津子

語は「凧(たこ)」で春。正月に子供らが揚げて遊ぶ「正月の凧」とは区別する。昔は雪解後の大風に大人が揚げて楽しむことが多かったそうで、現在でも各地に観光行事のようにして残っている。凧にもいろいろ種類があるが、なかで「奴凧」は江戸で鳶凧に奴の絵を描いたのがはじまりらしい。奴は元来は中間(ちゅうげん)小者などの武家下級奉公人であったが、ここから戦国末期から慶長年間(1596〜1615)にかけて、かぶき者が現れた。彼らは遊侠(ゆうきょう)無頼の徒であるが、しだいに然諾(ぜんだく)を重んじ義侠に富む気風を生じ、奴という名が、奴僕のことでなく、侠気があって腕がたち血気の勇ある者をいうようになった。江戸初期の旗本奴、町奴の源流である。したがって奴凧に描かれているのは、姿かたちはあくまでも武家の奉公人だが、田舎ザムライなにするものぞの気概であろう。奴凧の奴をよく見ると、例外なく「釘抜紋」と呼ばれる四角い紋がついている。これはどこの屋敷に雇われてもよいようにと考えられた簡単な紋で、さすれば奴は今で言う契約社員のような存在だったことがわかる。前置きが長くなってしまったが,掲句はそんな由来を持つ奴凧に「幕末の風」が吹き荒れるだろうと言っている。つまり作者の不吉な胸騒ぎというわけで、この着眼は秀抜だ。すなわち江戸太平の世は過ぎて、遊侠無頼の心意気ももはや時代遅れと成り果てる予感のなか、中空に舞い上がった奴凧の空しい意気(粋)を詠んでいる。一つの時代の没落の抒情。そう受け取っておいて、間違いはあるまい。『遊人』(1998)所収。(清水哲男)


April 1642014

 凧三角、四角、六角、空、硝子

                           芥川龍之介

は正月に揚げられることが多いことから、古くから春の行事とされてきた。三角凧、四角凧、六角凧、奴凧、セミ凧、鳥凧……洋の東西を含めて種類も形も多種多様だが、この時代のこの句、晴れあがった春の空いっぱいにさまざまな凧があがっているのだろう。名詞を五つならべて「、」を付した珍しい句だが、「硝子」とはこの場合何だろうか? 空にあがったさまざまな形の凧が、陽をあびてキラキラして見えるさまを、あたかも空に硝子がはめこまれているように眺めている、というふうに私は解釈する。また凧合戦で相手の凧の糸を切るために、糸に硝子の粉を塗って競う地方があるというけれど、その硝子の粉を指しているとまでは考えられない。私が生まれ育った雪国では、雪のある正月の凧揚げは無理で4、5月頃の遊びだった。上杉謙信などの武者絵の六角凧がさかんに使われていた。私の部屋の壁には森蘭丸を手描きした六角凧が四十年近く前から飾ってあり、今も鋭い目をむいて私を見下ろしている。掲句は大正5年、龍之介25歳のときの句だが、同じころの句に「したたらす脂(やに)も松とぞ春の山」がある。『芥川龍之介俳句集』(2010)所収。(八木忠栄)


February 2822015

 さらさらと舟のゆきかふ二月尽

                           高橋雅世

の前にある二月のカレンダー、一から二十八までの数字がきちっと長方形に並んでいる。たった二日か三日の差であるにもかかわらず二月があっという間に逃げてしまうのは、年度末に向かう慌ただしさと日々変わる天気や気温のせいだろうか。掲出句の、さらさら、にはそんな春浅い風と光が感じられる。小舟がゆっくりと行き交っているのは湖か。本当の春が近いことを告げる穏やかな日差しが、ああ二月も終わるなあ、と遠いまなざしで水辺に立つ作者に静かに降りそそいでいる。他に<椿より小さき鳥の来てをりぬ ><凧揚げの少年に草ながれけり>。『月光の街』(2014)所収。(今井肖子)




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