昨日のso-netのトラブル。9時間も復旧しなかったのは初めて。電脳社会の「脳」はもろい。




2000ソスN1ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0612000

 吾が売りし切手をなめて春着の子

                           大林秋江

月に着るために新調した晴れ着が「春着」。女性や子供の晴れ着について言うことが多い。郵便局に、ちょこちょこっと入ってきた春着の女の子。日頃、郵便局にはめったに子供はいないから、ましてや春着の子ともなれば目立つだろう。友だちに、年賀状の返事でも出すのだろうか。オクすることなく切手を求めると、これまたオクすることなく糊面をペロリとなめちゃったのだった。あれは何と言うのか、作者が糊面を湿らせるためのスポンジ容器を指さすひまもあらばこそ、である。「あら、まあ」と、読者には正月ならではの楽しい句だけれど、売った当人にペロリの図は、相手が子供でもちょっと引っ掛かるというところ。実は私もペロリ派で、一枚か二枚くらいのときはペロリとやってしまう。それに、なんとなくあのスポンジは頼り無い気もしたりして……。いつだったか、谷川俊太郎さんが「ボクも切手になりたいよ」と言ったことがある。「なぜですか」。「そりゃ、大勢の人にペロペロなめてもらえるからさ」。「……」。ということは、谷川さんもペロリ派なんだと、こちらには納得できたのだが。(清水哲男)


January 0512000

 ひとびとよ池の氷の上に石

                           池田澄子

の水が凍っている。そこまでは何ごとの不思議なけれど、張った氷の上に石があるとなれば、不思議な驚きの世界となる。いずれ誰かが置いたものか、何かの加減で転がり落ちてきたものではあるだろう。だが、こんな光景に出くわしても、多くの人は不思議とも思わないに違いない。立ち止まることはおろか、感覚に不思議が反応しないので、何も気に止めずに通過してしまうだけである。そこでむしろその不思議さに作者は注目し、「ひとびとよ」と呼びかけてみたくなったのだ。実際、私たちが失って久しい感覚の一つは、物事に素直に驚くそれではなかろうか。少々のことでは驚かなくなっており、その「少々」の幅も拡大する一方だ。おそらくは、バーチャルな不思議世界に慣れ過ぎてしまった結果の「鈍感」なのだろう。でも、バーチャルな世界では、本当に不思議なことは何一つ起こらないのだ。そのことを踏まえて句を読み返すと、作者の目が新鮮な驚きに輝いていることがわかる。思わずも「ひとびとよ」と呼びかけたくなった気持ちも……。呼びかけられた一人としては、謙虚に自省せざるをえない。俳誌「花組」(2000年・冬号)所載。(清水哲男)


January 0412000

 買初にかふや七色唐辛子

                           石川桂郎

初(かいぞめ)は「初買」とも言い、新年になって初めて物を買うことだ。といっても、スーパーで醤油や味噌などを買うのとは違う。新年を寿ぐために、いささか遊び心の入った買い物をすることを指している。だから、いろいろと買うなかで、本年は「買初となすしろがねの干鰈」(岡本差知子)と思い決めたりする。句として公表するとなれば、おのずから作者のセンスが問われるわけだ。作者は「七色唐辛子」を「買初」とした。なかなかに小粋な選択ではないか。買初コンテストがあるとしたら、必ずベスト・テンには入りそうである。「とうんとうんと唐辛子、ひりりと辛いは山椒の実、すはすは辛いは胡椒の粉、けしの粉、陳皮の粉、とうんとうんと唐辛子の粉」と、これは江戸の町を歩いた振り売りの七色唐辛子屋の売り声だそうな。陳皮(ちんぴ)は蜜柑や柚子の皮。これだと五色しかない計算になるが、実際に五色しかなかったのか、あるいは売り声の調子を出すために二色が省かれているのか。ちなみに「七色唐辛子」は江戸東京の呼び方で、関西では「七味(しちみ)」と言う。日頃の私は「一味」党だけれど、買初に「一味」では、「一」はよくても色気が足りなさ過ぎる。今年の買初は、何にしようかな。(清水哲男)




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