欠けて困るのは、まず「水」と「情報」だ。電池食いのポータブルTVが頼もしく見えてきた。




1999ソスN12ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 30121999

 水仙が捩れて女はしりをり

                           小川双々子

月用の花として、いま盛んに売られている水仙。可憐な雰囲気だが、切り花として持ち歩くには少々厄介だ。すぐにポキッと折れそうな感じだし、「水仙やたばねし花のそむきあひ」(星野立子)と、あまりお行儀がよろしくない。それがこともあろうに、水仙の花束を持って走っている女性がいるとなったら、これはもうただならぬ気配だ。師も走るという季節(句は年末を指してはいないが)ではあるけれど、いつにせよ、花を持った人の走る姿は確実に異様に写るだろう。このときに作者は、捩(ねじ)れている水仙の姿を、その女性と一体化している。実際は花が捩れているのだが、女性その人もまた水仙のように捩れていると……。双々子には他に「女体捩れ捩れる雪の降る天は」があり、女性の身体と「捩れ」は感覚的に自然に結びついているようだ。もちろん、女性を貶しているのでもなく蔑視しているのでもない、念のため。キリスト者だから、おそらくは聖母マリア像にも、同様な「捩れ」を感じているはずである。誰にでもそれぞれに固有に備わっている特殊な感覚の世界があり、そのなかから私たちは一生抜け出すことはできない。『小川双々子全句集』(1991)所収。(清水哲男)


December 29121999

 焼芋や月の叡山如意ヶ岳

                           日野草城

館曹人に「月も路傍芋焼くための石を焼く」がある。夜の食べ物と決まったわけではないけれど、やはり寒い夜に食べてこその焼芋(表記は「焼藷」が望ましい)だ。で、夜となれば「月」。曹人句の月は大きく、草城句のそれは遠望する比叡山にかかった小さな月である。いずれも印象深いが、如意ヶ岳の月は京都の底冷えを言外に語っていて鮮やかだ。手にしたあつあつの焼芋との対比で、いっそうの寒さが伝わってくる。例年この時季になると、京都ならぬ東京も郊外の井の頭公園に、車で昼間やってくる焼芋屋がいる。公園に遊びに来る人目当てなのだろうが、年の瀬の人々はそれどころではないようで、見向きもしない。商売になってるのかなと、余計な心配までしてしまうほどだ。しかも、例の「イーシヤーキィイモーッ」の呼び声は、小学生と思われる女の子の声である。助手席あたりのマイクから呼びかけているようで、姿は見えない。ときどきトチッては、笑ったりしている。最近では子供を前に押し立てる商売を見かけなくなったので、通りかかるたびに気になる。(清水哲男)


December 28121999

 ひねもすを御用納めの大焚火

                           今井つる女

いていの職場では、今日で年内の仕事を終了する。といっても、実質的には普段の仕事とは異なり、得意先への挨拶回りや、句のように大掃除をして過ごす職場がほとんどだろう。それも、大半が午前中で終わってしまう。句のように、昔は街のそこここで焚火が見られ、年末気分がいっそう高まったものだが、現在は「どんど焼き」までが目の敵にされる世の中。なかなか「ひねもす」の大焚火など見られなくなった。幸いなことに、我が家の近所にある小さな工場では、委細構わずに派手に焚火をする。何を作っているのかはわからないが、普段でもときどき焚火をしているので、相当な木くずが出るようだ。したがって、例年の仕事納めの日には、とにかく盛大に一日中燃やしつづけるのである。その場を通りかかるのが、いつしか私の年末の楽しみになってしまった。通りかかるだけで、顔がかっと熱くなる。しばらく立ち止まって、燃え盛る炎を見つめるのは快楽と言ってもよい。さて、このページに職場からアクセスしてくださっている皆さまとは、しばらくお別れですね。一年間のご愛読、ありがとうございました。よいお年をお迎えくださいますように。(清水哲男)




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