サンタは本当にいるのですよ、お嬢ちゃん。社説で書いた新聞は有名。本日各紙の社説や如何。




1999ソスN12ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 24121999

 新宿のノエルのたたみいわしかな

                           池田澄子

エル(Noёl)は、フランス語でクリスマス。その昔、我が青春の学校であった新宿の酒場街は、クリスマスだのイブだのには微動だにしなかった。空騒ぎをしていたのは安キャバ・チェーンくらいのもので、静かなものだった。そりゃ、そうだ。夜ごと飲み屋に集う面々には、敬虔なクリスチャンなどいるはずもなかったのだから……。物の本や映画で、七面鳥がご馳走くらいのことは知っていたけれど、食べてみたいという気も起きなかった。それでもタタミイワシをぽりぽりやりながら「今日はイブだな」と思い出す奴もいたりして、でも、会話はそれっきり。この時季に盛り上がる話題といえば、もうこれは競馬の「有馬記念」と決まっていた。「有馬記念」に七面鳥や、ましてケーキなんぞは似合わない。ところで正直に言って、この句が何を言おうとしているのかは、よくわからない。勝手に私が昔の新宿に結びつけているだけで、このときなぜ「ノエル」と洒落たのかとなると、ますますわからなくなる。が、あの頃の新宿には、たしかにタタミイワシがよく似合っていた。銀座でも渋谷でもなく、どうしても新宿という雰囲気だった。第一に、新宿の街それ自体が、タタミイワシみたいに錯綜していた。でも、いつしか、イブにタタミイワシを口にすることもなくなってしまった。今年の人気馬「スペシャルウィーク」がどんな走りをするのかも、もとより知らない。往時茫々である。メリー・クリスマス。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


December 23121999

 思惟すでに失せ渺渺と額の雪

                           深谷雄大

者は北海道在住。「雪の雄大」と称されるほどに、雪に取材した句が多く、優れた句も多い。吹雪の道を行く感慨だ。猛烈な吹雪のなかを歩いていると、考えることなど何もできなくなり、ただひたすらに前進あるのみ。額(ぬか)にかかる雪も、渺渺(びょうびょう)と果てしない感じになってくる。これほどまでの吹雪の体験はないけれど、私が育った山陰地方の雪も昔はけっこう降ったので(学校が休みになることも度々だった)、多少とも雰囲気はわかる。一面の銀世界、というよりも灰色の世界を歩いていると、思惟(しい)などはたちまち蒸発してしまい、妙なことを言うようだが、やけに自分の身体だけが身近に感じられたものだ。吐く息の熱さが意識され、こらす目の不可視性が頼りなく意識される……。日ごろは抽象性を帯びている身体が、自然の働きのなかで、にわかに具体的に生々しいものとなるわけだ。その生々しさが、句では「額」に象徴されている。若き日の深谷雄大は、詩人でもあった。したがって、この句が収められている第一句集『裸天』(1968)は、詩書出版社の思潮社から刊行された。現在は『定本裸天』(1998)として、邑書林により文庫化されている。(清水哲男)


December 22121999

 立ちどまり顔を上げたる冬至かな

                           草間時彦

がラジオ局のスタジオは、西向きだ。毎年この季節になると、低く運行する太陽の光が、まともにさしこんできて眩しい。本日「冬至」は、北半球での太陽の高度がもっとも低くなるので、眩しさも最高となる。そんなふうに「冬至」を感じる人間もいるかと思えば、作者のように「もう日が暮れていくのか」と立ちどまって西の空を眺めやり、「そういえば……」と納得する人もいる。どうということもない所作ではあるが、時計にかかわらぬ時間認識の味とは、なべてこういうものだろう。この句をさして「飽きがこない」と言った人がいた。飽きがこないのは、この時間認識が、生きとし生けるもの本来のそれであるからだ。時計といえば、放送局には腕時計を嫌う人間が意外に多い。それでなくとも分秒に追いまくられる仕事なので、自分の腕にまでわざわざ分秒を表示したくはないということである。そういう立場から読むと、この句の抒情性はさらに胸の奥にまで染み入ってくるはずだ。それはそれとして、今日の東京地方の日出時刻は6時47分、日入は16時32分。野暮だったかな。月は真ん丸。『朝粥』(1978)所収。(清水哲男)




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