週末の忘年会までに原稿が四本。この山を越えれば、かなり楽になる。当ページに集中できる。




1999ソスN12ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 13121999

 雪夜子は泣く父母よりはるかなものを呼び

                           加藤楸邨

閑たる雪の夜。ひとり寝ていた子供が、急に泣き出した。夢でも見たのだろう。じきに泣きやむさ、立っていくこともない。だが、なかなか泣きやまない。気になって、泣き声を聞いているうちに、なんだかいつもと違う声に感じられてきた。それは父や母に来てくれとうながしているのではなく、そんな日常性を越えて、もっと原初的な「はるかなもの」を呼んでいるかのような声だった。泣いているのは自分の子供には違いないけれど、その子供の声は「類としての人間」を体現しているようなそれであったと言うのである。ここで楸邨は、人が人としてあることの根源的な寂しさを語ろうとしている。それを、人間の大人が組み立てた社会には無縁な子供の泣き声を梃子にして、このように書き上げたというわけだ。生物として本能的に生きている子供の、いや「類としての人間」の、その本能に触れた衝撃。静かな雪の夜ならではの「発見」と言うべきだろう。破調にして字余り。「はるかなもの」を提示するためには、定型のなかでちんまりと座っているわけにはいかなかったのである。『起伏』(1949)所収。(清水哲男)


December 12121999

 熱燗や忘れるはずの社歌ぽろり

                           朝日彩湖

いなことに、社歌のある会社に勤めたことはない。朝礼のある会社には勤めたが、それだけでも苦痛なのに、社歌まで歌わされてはかなわない。誰だって(本音をたたけば経営陣だって)、作者のように忘れてしまいたいと思うだろう。しかし、これから「忘れるはず」の社歌が、酒の席で「ぽろり」と口をついて出てしまった。軽い自嘲。小さな風刺。さもありなんと、読者は苦笑いするしかないのである。と言いながら、社歌ではないけれど、私は昔、準社歌みたいな歌を書いたことがある。従業員のレクリエーションの集いなどにふさわしい歌詞をという依頼があり、当方は純粋な詩売人(!?)となって真面目に書き上げた。けっこう難産だった。タイトルは「風となる」(作曲・すぎやまこういち)。依頼人は「宝酒造株式会社」。でも、社内でこの歌が歌われているのかどうかは知らない。一度だけ、同社主催のゴルフ・コンペで流されていたという情報を聞いたことがあるきりだ。そのときに自分の歌詞を読み返してみて、なるほどゴルフ場には似合うかもしれないとは思った。だが、選りによって私の嫌いなゴルフの場で流されたのかと、ため息も出た。「チェッ」だった。俳誌「船団」(43号・1999年12月)所載。(清水哲男)


December 11121999

 海苔買ふや年内二十日あますのみ

                           田中午次郎

語は「年内(年の内)」。世の歳時記には「余す日も少なくなった年内。『年の暮』とほぼ同義だが、多少それよりゆとりを持つ感じ」と定義してある。では、いったい十二月の何日ごろから使ってもよい季語なのかと思っていたら、掲句を発見した。なるほど「年の暮」よりは、気持ち的にやや余裕のある今ごろの季語というわけか……。美味しそうな海苔を見かけた。少し早いかな。そう思いながら、作者は正月用にと買っておくことにした。でも、数えてみれば、今日から二十日経つと年が改まるという計算になる。となれば、別にそんなに早い「年用意」でもないなと、自分で自分を納得させているような句だ。「あますのみ」の「のみ」に、作者の海苔を買った言い分がある。で、海苔の袋を提げて往来に出てみると、正月はまだまだ先だというような顔をして、普段と同じような足取りで多くの人が歩いている。「あますのみ」の「のみ」を「のみ」と思わない人も、大勢いるということ。作者はそこまで言ってはいないのだが、こんなふうに読まないと、この句の面白さは引き出せないような気がする。しかし、あと一週間もすれば、世の中全体が「あますのみ」と言い募ることだろう。もちろん、私も。(清水哲男)




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