未明(1941)日本軍が真珠湾を奇襲。「止ムニ止マレヌ大和魂」という血塗られた屁理屈。




1999ソスN12ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 08121999

 焼鳥焼酎露西亜文学に育まる

                           瀧 春一

しくとも楽しかった青春回顧の一句である。この育(はぐく)まれ方は、しかし作者に固有のそれではない。安酒場で焼酎をあおり、熱っぽくドストエフスキーなどを語り合う。戦後まもなくの大学生たちの生活の一齣(こま)だ。焼鳥と焼酎と露西亜文学は、彼らの青春のいわば三点セットなのであった。だから、このように句にしても、違和感なく受け止めてくれる土壌はあるというわけだ。世代的には、昭和一桁生まれの人たち。昭和二桁初期の私は、わずかながら雰囲気だけは嗅いだことがある。私の頃には露西亜文学が後退しはじめており、カミュやらサルトルやらと仏蘭西文学に注目が集まりかけていた。いずれにしても、文学から生きる意味を学ぼうとする時代があったということだ。いまや、酒場や喫茶店で文学を語る若者など皆無に近い。フランスでもサルトルなどは読まれなくなったそうだが、人生における文学の価値は確実に下落したということだろう。本ばかり読んで、あまりにブッキッシュに物事を捉えるのも考えものではあるが、せっかくの文学者の労作を知らないまま死んでしまうのも寂しすぎる。現代の青春に三点セットがあるとすれば、それは何であろうか。(清水哲男)


December 07121999

 鴨鍋のさめて男のつまらなき

                           山尾玉藻

理の席で、ご馳走になっているのだろう。鍋物は、座をやわらげる。ぐつぐつと煮えている間は、さして親しくない者同士でも、とりあえずは場がもつのである。だが、やがて火が落とされ、だんだん鍋の物がさめてくるにつれて、作者のように気分がしらけてくるということも起きる。はじめからつまらない男とは承知だが、やはりつまらないという事態に立ち至り、そこで女は席を立つ機会をうかがう……。高級な鍋料理だけに、この場のみじめさはことさらに大きく感じられる。もとより、この逆のケースもありうるわけで、句の「男」を「女」と入れ替えてもよいわけだ。だが、入れ替えてみると、意味は通るのだけれど、句が汚くなる。なんとなく、いやな感じになる。もっと言えば、下品に堕ちてしまう。なぜだろうか。理由は、読者諸兄姉がお考えの通りだ。鍋物の季節到来。鴨鍋なんぞはどうでもいいから、そこらへんの安物の寄鍋を、親しい者同士でつつくのがいちばん美味しい。店の建て付けがガタビシしていて、隙間風がはいってくるとなれば、もう言うことなし。このやせ我慢も、鍋の大事なかくし味。「寄鍋や酒は二級をよしとする」(吉井莫生)。(清水哲男)


December 06121999

 炬燵にて帽子あれこれ被りみる

                           波多野爽波

燵(こたつ)に膝を入れて、あれこれと帽子をかぶってみている。それだけの、そのまんま句だ。「それがどうしたの」と言いたいところだが、なんだか面白いなと、一方では思ってしまう。面白いと思うのは、私たちの日常茶飯の行為には、句のように、他人から見るとほとんど「無意味」に見えるそれに近いことが多いからだろう。すなわち、私たちは「意味」のために生きているわけではないということだ。句は、暗にそういうことを言っている。そして、このことをちゃんと素朴に表現できる文芸ジャンルが俳句にしかないことに気づくとき、私たちは愕然とする。短歌でもこのようには書けないし、ましてや現代詩ともなれば無理な相談である。いや、本当はどんなジャンルでも、書いて書けないことはないのだけれど、受け取る読者が戸惑ってしまうということが起きる。同じことを書いても、俳句だと「事実」と受け取れるのだが、他のジャンルだとそうは受け取らないという「暗黙の常識」があるからだ。俳句についてのこの「常識」は子規と虚子が広めたようなものだが、いまや偉大な功績だと思わざるを得ない。爽波の句はことごとく、その偉大に乗っかっている。そこがまた、私は偉いと思う。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)




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