「足の裏」問題。詐欺だと思わない人がいることも事実。人の思いは一筋縄ではいかない。




1999ソスN12ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 07121999

 鴨鍋のさめて男のつまらなき

                           山尾玉藻

理の席で、ご馳走になっているのだろう。鍋物は、座をやわらげる。ぐつぐつと煮えている間は、さして親しくない者同士でも、とりあえずは場がもつのである。だが、やがて火が落とされ、だんだん鍋の物がさめてくるにつれて、作者のように気分がしらけてくるということも起きる。はじめからつまらない男とは承知だが、やはりつまらないという事態に立ち至り、そこで女は席を立つ機会をうかがう……。高級な鍋料理だけに、この場のみじめさはことさらに大きく感じられる。もとより、この逆のケースもありうるわけで、句の「男」を「女」と入れ替えてもよいわけだ。だが、入れ替えてみると、意味は通るのだけれど、句が汚くなる。なんとなく、いやな感じになる。もっと言えば、下品に堕ちてしまう。なぜだろうか。理由は、読者諸兄姉がお考えの通りだ。鍋物の季節到来。鴨鍋なんぞはどうでもいいから、そこらへんの安物の寄鍋を、親しい者同士でつつくのがいちばん美味しい。店の建て付けがガタビシしていて、隙間風がはいってくるとなれば、もう言うことなし。このやせ我慢も、鍋の大事なかくし味。「寄鍋や酒は二級をよしとする」(吉井莫生)。(清水哲男)


December 06121999

 炬燵にて帽子あれこれ被りみる

                           波多野爽波

燵(こたつ)に膝を入れて、あれこれと帽子をかぶってみている。それだけの、そのまんま句だ。「それがどうしたの」と言いたいところだが、なんだか面白いなと、一方では思ってしまう。面白いと思うのは、私たちの日常茶飯の行為には、句のように、他人から見るとほとんど「無意味」に見えるそれに近いことが多いからだろう。すなわち、私たちは「意味」のために生きているわけではないということだ。句は、暗にそういうことを言っている。そして、このことをちゃんと素朴に表現できる文芸ジャンルが俳句にしかないことに気づくとき、私たちは愕然とする。短歌でもこのようには書けないし、ましてや現代詩ともなれば無理な相談である。いや、本当はどんなジャンルでも、書いて書けないことはないのだけれど、受け取る読者が戸惑ってしまうということが起きる。同じことを書いても、俳句だと「事実」と受け取れるのだが、他のジャンルだとそうは受け取らないという「暗黙の常識」があるからだ。俳句についてのこの「常識」は子規と虚子が広めたようなものだが、いまや偉大な功績だと思わざるを得ない。爽波の句はことごとく、その偉大に乗っかっている。そこがまた、私は偉いと思う。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


December 05121999

 金の事思ふてゐるや冬日向

                           籾山庭後

書に「詞書略」とある。本当は書きたいのだが、事情があって書かないということだろう。なにせ、金のことである。誰かに迷惑がかかってはいけないという配慮からだ。籾山庭後は、経済人。出版社「籾山書店」を経営して身を引いた後も、時事新報社、昭和化学などの経営に参加した。永井荷風のもっとも長続きした友人でもある。冬の日差しは鈍いので、日向とはいえ肌寒い。ただでさえ陰鬱な気分のところに、金のことを考えるのだからやりきれない。さて、どうしたものか。思案の状態を詠んだ句だ。スケールは大違いだが、私も昔、友人と銀座に制作会社を持っていた。だから、作者の気持ちはよくわかるつもりだ。一度でも宛のおぼつかない手形を切ったことのある人には、身につまされる一句だろう。歳末には、金融犯罪が急増する。不謹慎かもしれないが、そこまで追いつめられる人たちの気持ちも、わからないではない。冷たい冬日向のむこうには、冷たい法律が厳然と控えている。 口直し(!?)に、目に鮮やかな句を。「削る度冬日は板に新しや」(香西照雄)。『江戸庵句集』(1916)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます