宙ぶらりん状態になった工藤公康投手。どこか変だ。頭を下げてでもダイエーに戻りなよ。




1999ソスN12ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 06121999

 炬燵にて帽子あれこれ被りみる

                           波多野爽波

燵(こたつ)に膝を入れて、あれこれと帽子をかぶってみている。それだけの、そのまんま句だ。「それがどうしたの」と言いたいところだが、なんだか面白いなと、一方では思ってしまう。面白いと思うのは、私たちの日常茶飯の行為には、句のように、他人から見るとほとんど「無意味」に見えるそれに近いことが多いからだろう。すなわち、私たちは「意味」のために生きているわけではないということだ。句は、暗にそういうことを言っている。そして、このことをちゃんと素朴に表現できる文芸ジャンルが俳句にしかないことに気づくとき、私たちは愕然とする。短歌でもこのようには書けないし、ましてや現代詩ともなれば無理な相談である。いや、本当はどんなジャンルでも、書いて書けないことはないのだけれど、受け取る読者が戸惑ってしまうということが起きる。同じことを書いても、俳句だと「事実」と受け取れるのだが、他のジャンルだとそうは受け取らないという「暗黙の常識」があるからだ。俳句についてのこの「常識」は子規と虚子が広めたようなものだが、いまや偉大な功績だと思わざるを得ない。爽波の句はことごとく、その偉大に乗っかっている。そこがまた、私は偉いと思う。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


December 05121999

 金の事思ふてゐるや冬日向

                           籾山庭後

書に「詞書略」とある。本当は書きたいのだが、事情があって書かないということだろう。なにせ、金のことである。誰かに迷惑がかかってはいけないという配慮からだ。籾山庭後は、経済人。出版社「籾山書店」を経営して身を引いた後も、時事新報社、昭和化学などの経営に参加した。永井荷風のもっとも長続きした友人でもある。冬の日差しは鈍いので、日向とはいえ肌寒い。ただでさえ陰鬱な気分のところに、金のことを考えるのだからやりきれない。さて、どうしたものか。思案の状態を詠んだ句だ。スケールは大違いだが、私も昔、友人と銀座に制作会社を持っていた。だから、作者の気持ちはよくわかるつもりだ。一度でも宛のおぼつかない手形を切ったことのある人には、身につまされる一句だろう。歳末には、金融犯罪が急増する。不謹慎かもしれないが、そこまで追いつめられる人たちの気持ちも、わからないではない。冷たい冬日向のむこうには、冷たい法律が厳然と控えている。 口直し(!?)に、目に鮮やかな句を。「削る度冬日は板に新しや」(香西照雄)。『江戸庵句集』(1916)所収。(清水哲男)


December 04121999

 暗さもジャズも映画によく似ショールとる

                           星野立子

前の句。作者が入ったのは、クラシック・スタイルのバーだろう。ほの暗い店内には静かにジャズが流れており、心地よい暖かさだ。大人の店という雰囲気。まるで映画の一場面に参加しているような気分で、作者はショールをとるのである。その手つきも、いささか芝居がかっていたと思われるが、そこがまた楽しいのだ。ショールというのだから、もちろん和装である。和装の麗人と洋装の紳士との粋な会話が、これからはじまるのだ。こうした店には、腹に溜まるような食べ物はない。間違っても、焼きおにぎりやスパゲッティなんぞは出てこない。あくまでも、静かに酒と会話を楽しむ場所なのである。いつの頃からか、このような店は探すのに苦労するほど減ってしまった。あることはあるけれど、めちゃくちゃに高いのが難である。強いて言うならば、現在の高級ホテルのバーと似ていなくもない。が、やはり違う。ホテルの店では、バーテンダーのハートが伝わってこないからだ。その意味からしても、最近の夜の遊び場はずいぶんと子供っぽくなってきている。だから、社会全体も幼稚で大人になれないのだ。遊び場は重要だ。遊び場もまた、人を育て社会を育てる。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)




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