週刊誌よりアンケート。なかに「今世紀世界三大美女をあげよ」という項目。誰だろうね。




1999ソスN11ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 12111999

 どぶろくの酔ひ焼鳥ももう翔ぶころ

                           園田夢蒼花

語は「どぶろく(濁り酒)」。新米を炊いて作ることから、秋の季語とされてきた。多くは密造酒なので、酒飲みには独特の情趣が感じられる季題だ。後ろめたさ半分、好奇心半分で、私も何度か飲んだことはある。当たり外れがあり、すぐに酸っぱくなるのが欠点だ。ところで、作者はまことに上機嫌。焼いている雀か何かが間もなく飛翔するかに見えるというのだから、快調な酔い心地だ。この場に下戸がいたとすると、冷たい目で「だから、酒飲みは嫌いだよ」と言われそうなほどに酩酊している。私も飲み助のはしくれだけれど、大人になってから(!?)は、こんなふうに天衣無縫に酔えたことは一度もない。どうしても、どこかで自制の心が働いてしまうのだ。山口瞳の言った「編集者の酒」の癖が、すっかり身に染みついてしまっているからだろう。作者が、うらやましい。でも、子供のころ(!?)には、この人みたいに酔ったことはある。気がつくと、深夜の道ばたで寝ていた。なんだかヤケに顔が冷たいなと思ったら、雪が降っているのだった。PR誌「味の味」(1999年11月号)所載。(清水哲男)


November 11111999

 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

                           松尾芭蕉

れっ、どこか違うな。そう思われた読者も多いと思う。よく知られているのは「かれ朶に烏のとまりけり秋の暮」という句のほうだから……(「朶」は「えだ」)。実は掲句が初案で、この句は後に芭蕉が改作したものだ。もとより推敲改作は作者の勝手ではあるとしても、芭蕉の場合には「改悪」が多いので困ってしまう。このケースなどが典型的で、若き日の句を無理矢理に「蕉風」に整えようとしたために、活気のない、つまらない句になっている。上掲の初案のほうがよほどよいのに、惜しいことをする人だ。「とまりたるや」は、これぞ「秋の暮」を象徴するシーンではないか。「ねえ、みなさんもそう思うでしょ」という作者の呼びかける声が伝わってくる。それがオツに澄ました「とまりけり」では、安物のカレンダーの水墨画みたいに貧相だ。私の持論だが、表現は時の勢いで成立するのだから、後に省みてどうであろうが、それでよしとしたほうがよい。生涯の表現物をきれいに化粧しなおすような行為は、大袈裟ではなく、みずからの人間性への冒涜ではあるまいか。飯島耕一が初期の芭蕉を面白いと言うのも、このあたりに関係がありそうだ。「エエカッコシイ」の芭蕉は好きじゃない。(清水哲男)


November 10111999

 七十や釣瓶落しの離婚沙汰

                           文挟夫佐恵

齢者の離婚が増えてきたという。定年退職したとたんに、妻から言い出されて困惑する夫。そんな話が、雑誌などに出ている。誰にとってもまったくの他人事ではないけれど、句の場合は他人事だろう。ちょっと突き放した詠みぶりから、そのことがうかがえる。身近な友人知己に起きた話だろうか。若いカップルとは違って、高齢者の離婚は精神的なもつれの度合いが希薄だから、話は早い。井戸のなかにまっすぐ落下してゆく釣瓶のように、あっという間に離婚が成立してしまう。作者は、半ば呆れ半ば感心しながら、自身の七十歳という年令をあらためて感じているのだ。そういえば、事は「離婚沙汰」に限らず、年輪が事態を簡単に解決してしまう可能性の高さに驚いてもおり、他方では淋しくも思っている。最近必要があって、老人向けに書かれた本をまとめて読んだ。五十代くらいの著者だと、こうした心境にはとうてい思いがいたらないわけで、趣味を持てだの友人を作れだのという提言も、空しくも馬鹿げた物言いにしか写らなかった。なお、作者名は「ふばさみ・ふさえ」と読む。『時の彼方』(1997)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます