事件はつきないが、武蔵野市に小学生の男の子だけを殴ったりつねったりする女性が出現。




1999ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21101999

 万太郎が勲章下げし十三夜

                           長谷川かな女

宵の月が「十三夜」。陰暦八月十五日の名月とセットになっていて「後(のち)の月」とも言い、大昔には十五夜を見たら十三夜も見るものとされていたそうだ。美しい月の見納め。風雅の道も大変である。で、片方の月しか見ないのを「片見月」と言ったけれど、たいていの現代人は今宵の月など意識してはいないだろう。それはともかく、十三夜のころは寒くなってくるので、ものさびしげな句が多い。「りりとのみりりとのみ虫十三夜」(皆吉爽雨)、「松島の後の月見てはや別れ」(野見山朱鳥)。そんななかで、この句は異色であり愉快である。「万太郎」とは、もちろん久保田万太郎だろう。秋の叙勲か何かで、万太郎が勲章をもらった(ないしは、もらうことになった)日が十三夜だった。胸に吊るした晴れがましい勲章も、しかし十三夜の月の輝きに比べると、メッキの月色に見えてしまう。ブリキの勲章……。かな女は、そこまで言ってはいないのだけれど、句には読者をそこまで連れていってしまうようなパワーがある。勲章をもらった万太郎には気の毒ながら、なんとなく間抜けに思われてくる。寿ぎの句だが、寿がれる人物への皮肉もこめられていると言ったら、天上の人である作者は否定するだろうか。にっこりするだろうなと、私は思う。(清水哲男)


October 20101999

 うそ寒きラヂオや麺麭を焦がしけり

                           石田波郷

麭は食用の「パン」のこと。ちなみに、麺麭の「麺(めん)」は小麦粉のことであり、「麭(ほう)」は粉餅の意である。なるほど、考えられた当て字だとは思うが、難しい表記だ。さて、何となく寒い感じになってきた朝、作者はいつものようにパンを焼いている。習慣でつけているラジオの音も、今朝は何となく寒そうに聞こえてくる。昔のラヂオ(ラジオ)は茶の間の高いところなどに置いてあったから、台所からではよく聞こえない。そんなラジオに束の間、作者は聞き耳を立てていたのだろう。パンに心が戻ったときには、焦がしてしまっていた……。いまのトースターのように、焼き上がる時間をセットできなかったころの哀話(笑)だ。そこで作者は、うかつな失敗を犯した自分にちょっぴり腹を立てているわけだが、それが「うそ寒」い気持ちを倍加させている。ラジオの放送の中身も大したことはなかったようで、「うそ寒きラヂオ」という表現になった。肌身に感じる寒さにとどまらず、心のうそ寒さまでをも言い止めた句だ。寒いと言えば「嘘」になる「うそ寒さ」。と言うのは「真っ赤な嘘」(笑)で、本意は「薄寒さ」。客観的な「秋寒」などよりも、心理的な色彩の濃い言葉だ。こんな表現は、外国語にはないだろうな。(清水哲男)


October 19101999

 芋煮会阿蘇の噴煙夜も見ゆる

                           鈴木厚子

年度俳句研究賞受賞作「鹿笛」五十句のうち。芋煮会の本家は山形県や宮城県、そして福島県の会津地方だが、最近では全国的に行われるようになった。東京でも多摩川などにくり出す人々がいて、定着しつつある。こちらは九州というわけだが、阿蘇の噴煙を背景にしての大鍋囲みは、さぞかし気宇壮大な気分になることだろう。昼間の阿蘇をバックに芋煮会の写真を撮って、それをネガで見ると、句の視覚的理解が得られる。そこには噴煙をあげる阿蘇の雄大さが強調されているはずで、人の昼間の営みは幻のようにぼんやりとしている。夜も働く自然の圧倒的な力が、句のテーマである。ところで芋煮会の「芋」は「里芋」だ。俳句でも「芋」といえば「里芋」を指してきたが、今日「芋」と聞いて「里芋」を連想する人がどれほどいるだろうか。たまたまこの句の掲載された雑誌に、宇多喜代子が「いも」という一文を寄せている。ある集まりで「いも」と言って何芋を思い出すかというアンケートをとったところ、「サツマイモ」と「ジャガイモ」と答えた人がほとんどだったそうだ。となると、これから「芋」を詠むときには、それが「里芋」であることを指し示すサインを出しておく必要がありそうだ。「俳句研究」(1999年11月号)所載。(清水哲男)




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