余白句会。兼題は辻征夫の当番で「月」「稲妻」「鵯」「川(無季)」と、作りにくいぜ。




1999ソスN10ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 09101999

 くらくなる山に急かれてとろろ飯

                           百合山羽公

遊びの帰途。早くも暗くなりはじめた空を気にしながらも、とろろ飯を注文した。早く山を下りなければという思いと、せっかく来たのだから名物を食べておかなければという欲望が交錯している。私にもこういうことがよく起きて、食べ物でもそうだが、土産物を買うときにも「急かれて」しまうことが多い。作者にはいざ知らず、私は優柔不断の性格だから、いろいろと思いあぐねているうちに、時間ばかりが過ぎていってしまうのである。その意味で、この句はよくわかる。たいていの人は、そうではないと思う。名物があったら迷わず早めに食べたり買ったりして、帰りの汽車のなかでは、にぎやかに合評会をやったりしている。実に、羨ましい。「とろろ」は古来、栄養価の高いことから「山薬」といわれて珍重されてきた。自然薯(じねんじょ)を使うのが本来だけれど、希少なために、近年では栽培した長芋などで作る。これを麦飯にかけたのが「麦とろ」。白い飯にかけると食べ過ぎるので、それを防ぐために麦飯が登場したのだそうな。(清水哲男)


October 08101999

 転けし子の考へてをり秋天下

                           上野 泰

さな子供が転んだ(転(こ)けた)。子供は一瞬、自分の身に何が起きたのかわからない。泣きもせず、転んだままの姿勢でじっとしている。作者には、その姿が何かを「考へてを」るように見えている。澄み渡った秋空の下、「考へてを」る子供だけにスポットがあてられ、周辺の景色や音はすべて消されている。大きな青空の下のちっぽけな命。この対比が訴えてくるのは、大人である私たちの命のありようもまた、この小さな子供のそれのようだということである。川崎展宏の鑑賞を引いておく。「カンガエテオリと読んで来る時間のよろしさ、間のよろしさ、秋天(しゅうてん)のもとにこの子だけの居る世界。切ない」。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


October 07101999

 朝露に手をさしのべて何か摘む

                           大串 章

の庭で、たとえば妻が何かを摘んでいる。そんな姿を垣間見た写生句と理解してもよいだろう。実際に、そのとおりであったのかもしれない。しかし、私はもう少し執念深く、句にへばりついてみる。この「何か」が気になるからだ。「何か」とは、何だろうか。と言って、「何か」が草の花であるとか間引き菜であるとかと、その正体を突き止めたいわけじゃない。そうではなくて、この「何か」が句に占める役割が何かということを考えてみている。つまり作者は、故意に「何か」という言葉を据えた気配があるからだ。草の花や間引き菜に特定すると、句からこぼれ落ちてしまうもの。そういうものをこぼしたくないための「何か」を、作者は求めたにちがいない。そう考えて何度も読んでいるうちに、いつしか浮かび上がってきたのが、人の所作のゆかしさである。その露の玉のような美しさ。特定の誰彼のゆかしさというのではなく、古来私たちの生活に根付いてきた所作のゆかしさ全体を、作者は「何か」という言葉にこめて暗示している。こう読んでみると、小さな日常句がにわかに大きな時空の世界に膨れ上がってくるではないか。「百鳥」(1999年10月号)所載。(清水哲男)




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