また大臣が変った。職業柄覚えなくてはならないが、なんだか疲れちゃう名前ばかりだ。




1999ソスN10ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 06101999

 コスモスの押しよせてゐる厨口

                           清崎敏郎

花にすると可憐な風情のコスモスも、なかなかどうして根性のある花である。その性(さが)は、獰猛(どうもう)とさえ思われるときがある。まるで、誰かさんのように……(笑)。句のごとく、小さな津波のようにどこにでも押しよせてくる。頼みもしないのに、押しかけてくる。句は獰猛を言っているのではないが、逆に可憐を言っているのでもない。その勢いに目を見張りながら、少したじろいでいる。だから、この花は厨口(くりやぐち)など、表からは目立たないところに植えられてきた。いや、植えたとか蒔いたとかということではなく、どこからか種子が風に乗ってきて、自生してしまっていることのほうが多いのかもしれない。一年草だから、花が終わると根を引っこ抜く。この作業がまた大変なのだ。そんな逞しさのせいで、コスモスは徐々に家庭から追い出されている花だとも言えよう。最近の庭では、あまり見かけなくなった。長野県の黒姫高原や宮崎県の生駒高原などが名所だと、モノの本に書いてある。東京では立川の昭和記念公園が新名所で、ここには黄色い品種が群生しているらしい。コスモスも、わざわざ見に出かける花になりつつある。『安房上総』(1964)所収。(清水哲男)


October 05101999

 ひんがしに霧の巨人がよこたわる

                           夏石番矢

ういう句は、丸呑みにしたい。「ひんがし(東)に」とあるから朝霧だと思うが、そんな詮索もせずに丸呑みにしてみて、消化できるかどうかを、しばらく待ってみる。消化できなかったら、吐き出せばよい。句は深い霧に対する作者の印象をストレートに述べているので、なかにはイメージに違和感を覚えて承服しがたい読者がいても当然のことだろう。私は承服したけれど、同様の発想は、童話の世界などではありふれたものである。ただし「ひんがし」と文語的に踏み出したことで、この巨人が日本神話のなかにでも「よこたわる」かのようなイメージを獲得している点に注目しておきたい。番矢のオリジナリティは「ひんがし」の「ん」一文字に発揮されているというわけだ。すなわち「ん」一文字によって、この巨人が西欧の人物ではなく、この国の巨人となった。アア、読売巨人にも、これくらいの摩訶不思議さがあったらなあ(笑)。自分で自分のことを「ミラクル」なんて言ってるようではねえ。『神々のフーガ』(1990)所収。(清水哲男)


October 04101999

 稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ

                           中村汀女

は「ぬ」と発音する。遠くの夜空に、音もなく雷光のみが走る。稲妻(いなづま)は「稲の夫(つま)」の意で、稲妻によって稲が実るという俗説から秋の季語となった。その稲妻を「ゆたか」と受け止めている感性に、まずは驚かされる。私などは目先だけでとらえるから、とても「ゆたか」などという表現には至らない。作者は目先ではなく、いわば全身で稲妻に反応している。他の自然現象についても、そういう受け止め方をした人なのだろう。汀女句の「ふくよかさ」の秘密は、このあたりにありそうだ。昔の主婦は、格段に早起きだった。だから「寝べきころ」とは、明日の家族の生活に支障が出ないようにセットされた時間だ。このことについても、作者が全身でゆったりと受け止めている様子が、句からよく伝わってくる。その意味では「ゆたか」を除くと凡庸な作品に思えるかもしれないが、それは違う。私たちが、いま作者と同じ立場にあると仮定して、はたして句のように些細な日常を些細そのままに切り取れるだろうか。ここに隠されてあるのは、極めて犀利なテクニックが駆使された痕跡である。『汀女句集』(1944)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます