今夜の月を「更待月(ふけまちづき)」と言う。これにて名月シリーズは一巻の終わり。




1999ソスN9ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2991999

 鰯めせめせとや泣子負ひながら

                           小林一茶

国信州信濃に鰯(いわし)を売りに来るのは、山を越えた越後の女。赤ん坊を背負っての行商姿が、実にたくましい。しかも昔から「越後女に上州男」といって、越後女性の女っぷりの評判は高かった。相馬御風『一茶素描』(1941)のなかに、こんなことが書いてある。「どんなにみだりがはしい話をもこちらが顔負けするほどに露骨にやるのが常の越後の濱女の喜ばれることの一つ」。となると、例の「あずま男に京女」のニュアンスとは、かなり懸け離れている。嫋々とした女ではなく、明朗にして開放的な性格の女性と言うべきか。句から浮かび上がるのは、とにかく元気な行商女のふるまいだが、しかし、一茶が見ているのは実は背中の赤ん坊だった。このとき、一茶は愛児サトを亡くしてから日が浅かったからである。「おつむてんてん」とやり「あばばば」とやり、一茶の子煩悩ぶりは大変なもののようだったが、サトはわずか四百日の寿命しかなかった。『おらが春』の慟哭の句「露の世は露の世ながらさりながら」は、あまりにも痛々しい。威勢のよい鰯売りの女と軽口を叩きあうこともなく、泣いている赤ん坊をじいっと眺めている一茶。おそらく彼は、女の言い値で鰯を買ったことであろう。(清水哲男)


September 2891999

 蓼紅しもののみごとに欺けば

                           藤田湘子

のような嘘をついたのか。あまりにも相手が簡単に信じてくれたので、逆に吃驚している。しかし、だから安堵したというのではない。安堵は束の間で、自責の念がふつふつとわき上がってきた。秋風にそよぐ蓼(たで)の花。ふだんは気にもとめない平凡な花の赤さが、やけに目にしみてくる。人には、嘘をつかなければならぬときがある。それは必ずしも自己の保身や利益のためにだけではなく、相手の心情を思いやってつく場合もある。この種の欺きが、いちばん辛い。たとえば会社の人事などをめぐって、よくある話だ。そして、人を欺くというとき、相手がいささかも疑念を抱かないときほど切ないことはないのである。ところで、蓼の花は、日本の自生種だけで五十種類以上もあるそうだ。俳句では、そのなかから「犬蓼(いぬたで)」だけは区別してきた。「犬蓼」の別名は「赤のまんま」「赤まんま」など。子供のままごと遊びの「赤いまんま(赤飯)」に使われたことから、この名がつけられたという。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


September 2791999

 帆をあぐるごとく布団を干す秋日

                           皆吉 司

日(あきび・秋の日)は、秋の一日をさしていうときもあるが、ここでは秋の太陽である。秋の日は暮れやすいので、ちょっと慌ただしい感じで干した気分が、にわかの出帆に通じていると読んだ。でも、これは深読みで、もっと素直に受け取ったほうがよいのかもしれない。帆をあげるように干すとは、若い感覚だ。実際、作句時の作者は二十三歳。秋冬の布団は重いので、腰痛持ちの私などには畳をあげるような気分がする。とりあえず物干竿の上によっこらしょと布団を持ち上げておいて、フウッと一息ついてからおもむろに広げていくという始末。元来が短気だから、のろまな行為は許せないのだが、やむを得ない。腰痛の辛さには換えられない。しかりしこうして、これからの我が人生のテーマの一つは、どうやって短気とのろまの折り合いをつけていくのかということになっている。それはともかく、こういう句に接すると、にわかに布団を干したくなってくるから妙だ。完璧な生活実用句なり(笑)。さあ、今日のお勤め(本稿)は終了した。できるだけゆるりゆるりと(!)、布団を干すことにしよう。『ヴェニスの靴』(1985)所収。(清水哲男)




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