介護保険制度のマイナス面を指摘するマスコミ。プラス面はどこにあるのかも報道せよ。




1999ソスN9ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2891999

 蓼紅しもののみごとに欺けば

                           藤田湘子

のような嘘をついたのか。あまりにも相手が簡単に信じてくれたので、逆に吃驚している。しかし、だから安堵したというのではない。安堵は束の間で、自責の念がふつふつとわき上がってきた。秋風にそよぐ蓼(たで)の花。ふだんは気にもとめない平凡な花の赤さが、やけに目にしみてくる。人には、嘘をつかなければならぬときがある。それは必ずしも自己の保身や利益のためにだけではなく、相手の心情を思いやってつく場合もある。この種の欺きが、いちばん辛い。たとえば会社の人事などをめぐって、よくある話だ。そして、人を欺くというとき、相手がいささかも疑念を抱かないときほど切ないことはないのである。ところで、蓼の花は、日本の自生種だけで五十種類以上もあるそうだ。俳句では、そのなかから「犬蓼(いぬたで)」だけは区別してきた。「犬蓼」の別名は「赤のまんま」「赤まんま」など。子供のままごと遊びの「赤いまんま(赤飯)」に使われたことから、この名がつけられたという。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


September 2791999

 帆をあぐるごとく布団を干す秋日

                           皆吉 司

日(あきび・秋の日)は、秋の一日をさしていうときもあるが、ここでは秋の太陽である。秋の日は暮れやすいので、ちょっと慌ただしい感じで干した気分が、にわかの出帆に通じていると読んだ。でも、これは深読みで、もっと素直に受け取ったほうがよいのかもしれない。帆をあげるように干すとは、若い感覚だ。実際、作句時の作者は二十三歳。秋冬の布団は重いので、腰痛持ちの私などには畳をあげるような気分がする。とりあえず物干竿の上によっこらしょと布団を持ち上げておいて、フウッと一息ついてからおもむろに広げていくという始末。元来が短気だから、のろまな行為は許せないのだが、やむを得ない。腰痛の辛さには換えられない。しかりしこうして、これからの我が人生のテーマの一つは、どうやって短気とのろまの折り合いをつけていくのかということになっている。それはともかく、こういう句に接すると、にわかに布団を干したくなってくるから妙だ。完璧な生活実用句なり(笑)。さあ、今日のお勤め(本稿)は終了した。できるだけゆるりゆるりと(!)、布団を干すことにしよう。『ヴェニスの靴』(1985)所収。(清水哲男)


September 2691999

 鵯と暮らし鵯の言葉も少しずつ

                           阪口涯子

の名前を表わす漢字にも読みを忘れてしまうものが多いが、鳥の名前のそれも同様だ。卑しい鳥と書いて、「ひよどり」と読む。句では多くの地方の通称である「ひよ」と読ませている。なぜ、鵯は卑しい鳥なのだろう。推測だが、秋になると山から食料を求めて里に出現するという「食い意地」故の命名だったのではないか。おまけに、ピーヨ、ピーヨ、ピルルッなどと鳴き声がうるさい。それが、ますます卑しい感じを助長したのであろう。作者は、そんな鵯にも、ちゃんと言葉があるのだという。ただ騒々しいだけの鳥ではないのだという。もちろん、その通りだろう。言葉というのか、鳥の鳴き声にも種々ニュアンスの差がある。でも、作者がここで言いたいのは、つまり、そんなニュアンスが聞き分けられるようになったほどに、ようやく今の地に馴染んできたということだ。鵯を表に出して、実は自分の生活の履歴を語っているわけである。俳句ならではの技法。ただ、混ぜ返すようだけれど、最近の東京あたりの鵯は、ほとんど一年中「里」に定着している。私なども、鵯と「暮らし」ているようなものである。いずれ、この鳥は秋の季語から抹殺されてしまうかもしれない。(清水哲男)

[読者から寄せられた資料] 「ホホキドリ」のように、鳥の鳴き声をうつす写生語に、「トリ」ということばを付けて、鳥名にすることは、そんなに珍しいことではない。たとえば、「ヒヨドリ」。都会に多い鳥なので、あなたも毎日ヒヨドリの声を耳にしているにに違いない。「ピーヨ」とか「ヒーヨ」と鳴いていないか。あの鳴き声を「ヒヨ」とうつし、それに「トリ」をつけて誕生した名前だ(山口仲美『ちんちん千鳥のなく声は』P29)。




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