台風が故郷山口県むつみ村を直撃した模様。ここまで育ててきた稲がどうなったか心配。




1999ソスN9ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2591999

 秋出水乾かんとして花赤し

                           前田普羅

風や集中豪雨のために洪水となる。それが「秋出水(あきでみず)」。句は、洪水がおさまって一段落したころの様子を詠んでいる。信じられないような青い空が戻ってきて、人々は後片づけに忙しい。出水にやられると、何もかもが泥だらけになってしまうので、とにかく始末が悪いのだ。もちろん、水に漬かった花々も泥にまみれている。赤い花というのだから、曼珠沙華だろうか、それとも鶏頭の類だろうか。ふと目をやると、いつもよりひときわ花の赤い色彩が鮮やかに映えて見えた。そういう情景だ。出水の灰色に慣れた目で見るのだから、泥のついた花であろうと鮮やかに見える理屈だが、普羅の意識はもっと先へと自然に進み、「乾かんとして」と、いわば「花の意志」を詠み込んでいる。俳句の素人と玄人を識別する物差しがあるとすれば、このあたりの詠み込み具合が基準の一つになるのだろう。同じような情景を詠んだ句は他にもたくさんあると思うが、「乾かんとして」と花に意志があるように自然に詠むのは、普羅ひとりである。しかもこの場合に、「乾かんとして」という表現は奇態なそれでもなんでもなく、言われてみれば「そうだなあ」というところが、実に技巧的でもあり、技巧を感じさせない技巧の妙でもある。「かなわねえなア」と、私などはうなだれてしまう。(清水哲男)


September 2491999

 満月や泥酔という父の華

                           佐川啓子

月というと、俳句では仲秋の名月を指す。陰暦八月十五日の月(すなわち、今宵の月だ)。蕪村に「盗人の首領歌よむけふの月」があり、大泥棒までが風流心にとらわれてしまうほどに美しいとされてきた。「けふ(今日)の月」も名月を言う。したがって、名月を賞でる歌は数限りないが、この句は異色だ。名月やら何やらにかこつけては飲み、いつも泥酔していた父。生前はやりきれなく思っていたけれど、今となっては、あれが「父の華(はな)」だったのだと思うようになった。今宵は満月。酔っぱらった父が、なんだか隣の部屋にでもいるようである……。泥酔に華を見るとは、一見奇異にも感じられるが、そうでもあるまい。死者を思い出すというとき、私たちもまた、その人の美点だけをよすがとするわけではないからだ。本音ではむしろ、欠点のほうを微笑しつつ思い返すことのほうが多いのではなかろうか。その意味からして、心あたたまる句だ。ところで、季語の名月には他にも「明月」など様々な言い換えがあり、なかに「三五(さんご)の月」もある。十五は三掛ける五だからという判じ物だが、掛け算を知っていることが洒落に通じる時代もあったということですね。(清水哲男)


September 2391999

 靴提げて廊下を通る鶏頭花

                           北野平八

うかすると、古い飲屋での宴会などで、こういう羽目になる。入り口に下駄箱がなく、部屋の近くまで履物を提げていかなければならない。どうしてなのだか、あれは気分もよくないし、靴を提げている自分が哀れに思えてくる。おまけに、靴というものがこんなにも大きく重いものだとはと、束の間ながら、ますます不快になる。トボトボ、トボトボ。そんな感じで廊下を歩いていくと、廊下添いの庭とも言えぬ庭に生えている真っ赤な鶏頭どもに、まるであざ笑われているかのようだ。鶏頭というくらいで、この花は動物めいた姿をしているので、またそれが癪にさわる。誇張して書いたけれど、こうした些事をつかまえて俳句にできる北野平八の才質を、私は以前から羨ましいと思ってきた。それこそ些事を山ほど書いた虚子にも、こういう句はできない。虚子ならば宴席を詠むのだし、平八は宴席に至る廊下を詠むのである。どちらが優れていると言うのではなく、人の目のつけどころには、天性の才質がからむということだ。虚子の世界は虚子にまかせ、平八のそれは平八にまかせておくしかないのだろう。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)




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