つい、パソコン誌に読みふけってしまう。必死の発想が飛び交う様子に惹かれるのだ。




1999ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1891999

 山ばかりつづくしこ名や草相撲

                           門司玄洋人

撲は秋の季語。桓武天皇の時代から、宮中での相撲節会が、陰暦七月の終わり頃に行われてきたことによる。ところで、相撲の句というと、ひいきの力士が勝負に負けた哀感や、老いた相撲取りの姿などを詠むことが多い。力勝負の世界では、弱者のほうが絵になりやすいからだ。そんななかで、この句はあっけらかんと異色である。下手くそで弱いくせに、出てくる奴はみな「……山」と強そうな名前ばかり。鼻白んでいるのではなく、作者はむしろ呆れている。しかし、それが草相撲の楽しさであるとも言っている。いまの大相撲でも「武双山」「旭鷲山」「雅山」「千代天山」など「山」のつく力士は多く、やはり動かざること山のごとし、というイメージにこだわった結果なのか。反対に、最近影が薄いのは「川」の名だろう。「海」はあるが、「川」はほとんど見られなくなった。私が好きだった上手投げの名人「清水川」の頃には、「川」を名乗った力士は沢山いたけれど、現在の幕内には一人もいない。川は抒情的に過ぎるからだろうか、それとも水質汚染のせいで嫌われるのか。しこ名にも、流行があるようだ。(清水哲男)


September 1791999

 添水鳴ると気のつきしより添水鳴る

                           西山 誠

名を「鹿威し(ししおどし)」「ばったんこ」などという「添水(そうず)」の鳴る原理は簡単だが、短い言葉で説明するとなると難しい。辞書に頼る。「一方を削って水がたまるようにした竹筒に水を落とし、その重みで支点の片側が下がり、水が流れ出すとはね返って、他の端が石などを打って音を出す装置」(『現代国語例解辞典』小学館)。元来は田畑を荒らす鳥獣を威す、いわば案山子の音響版であった。ほとんどの歳時記で、案山子の項目の隣に置かれているのは、その故だろう。が、いまでは日本庭園の風流味をかもし出すための小道具的な存在となった。詩仙堂にもあり、苔寺にもある。「添水」の音にかぎらないが、音というのは不思議なもので、規則的に響いている音ほど、耳に入らないことがある。昔はどこの家にもあった柱時計の音もその一つで、深夜目覚めたときなどに、ひとたび気になりだすと眠れなくなったりしたものだ。この句もそういう種類のことを言っていて、風流を感じる心とは別の次元で「添水」をとらえているところが面白い。(清水哲男)


September 1691999

 鹿になる考えることのなくなる

                           阿部完市

鹿は、秋の季語ということになっている。鹿の振る舞いが、この季節にいちばん派手になるからだろう。間もなく交尾期がはじまると、雄はみなヒョヒョヒューヒューと鳴き(平井照敏『新歳時記』)、他の雄と角突き合わせての雌の争奪戦を展開する。春先の猫の恋もさることながら、なにせ鹿は図体も声も大きいので、昔から大いに気になる存在だったようだ。『万葉集』に「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜(こよい)は鳴かずいねにけらしも」(岡本天皇)があり、ヒト(?)の色事などほっとけばよいのに、上品な人までがやはり気にしている。そんな鹿になったならば、考えることもなくなるなと作者は言う。いや、そのような日常的な仮定を越えて、作者はここで本当に鹿になってしまっているとも読める。鹿そのものに成りきって、自然に考えることのなくなった自分をレポートしていると読むほうが、正確かもしれない。「考えることの」の「の」が、ひとりでに無理なく思考を停止したプロセスを示しているとも読めるからだ。いずれにしても、変に面白い句だ。そしてたしかに、鹿は考え深そうな動物ではない。「子鹿のバンビ」がもうひとつ受けなかったのは、ときどき小首をかしげたりして、そのあたりが鹿の生態とはずれ過ぎていたせいだろう。『阿部完市句集』(1994)所収。(清水哲男)




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