十二歳の読者からメールをもらった。一瞬驚いたが、私も大人の本を読んでいた年代。




1999ソスN9ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1791999

 添水鳴ると気のつきしより添水鳴る

                           西山 誠

名を「鹿威し(ししおどし)」「ばったんこ」などという「添水(そうず)」の鳴る原理は簡単だが、短い言葉で説明するとなると難しい。辞書に頼る。「一方を削って水がたまるようにした竹筒に水を落とし、その重みで支点の片側が下がり、水が流れ出すとはね返って、他の端が石などを打って音を出す装置」(『現代国語例解辞典』小学館)。元来は田畑を荒らす鳥獣を威す、いわば案山子の音響版であった。ほとんどの歳時記で、案山子の項目の隣に置かれているのは、その故だろう。が、いまでは日本庭園の風流味をかもし出すための小道具的な存在となった。詩仙堂にもあり、苔寺にもある。「添水」の音にかぎらないが、音というのは不思議なもので、規則的に響いている音ほど、耳に入らないことがある。昔はどこの家にもあった柱時計の音もその一つで、深夜目覚めたときなどに、ひとたび気になりだすと眠れなくなったりしたものだ。この句もそういう種類のことを言っていて、風流を感じる心とは別の次元で「添水」をとらえているところが面白い。(清水哲男)


September 1691999

 鹿になる考えることのなくなる

                           阿部完市

鹿は、秋の季語ということになっている。鹿の振る舞いが、この季節にいちばん派手になるからだろう。間もなく交尾期がはじまると、雄はみなヒョヒョヒューヒューと鳴き(平井照敏『新歳時記』)、他の雄と角突き合わせての雌の争奪戦を展開する。春先の猫の恋もさることながら、なにせ鹿は図体も声も大きいので、昔から大いに気になる存在だったようだ。『万葉集』に「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜(こよい)は鳴かずいねにけらしも」(岡本天皇)があり、ヒト(?)の色事などほっとけばよいのに、上品な人までがやはり気にしている。そんな鹿になったならば、考えることもなくなるなと作者は言う。いや、そのような日常的な仮定を越えて、作者はここで本当に鹿になってしまっているとも読める。鹿そのものに成りきって、自然に考えることのなくなった自分をレポートしていると読むほうが、正確かもしれない。「考えることの」の「の」が、ひとりでに無理なく思考を停止したプロセスを示しているとも読めるからだ。いずれにしても、変に面白い句だ。そしてたしかに、鹿は考え深そうな動物ではない。「子鹿のバンビ」がもうひとつ受けなかったのは、ときどき小首をかしげたりして、そのあたりが鹿の生態とはずれ過ぎていたせいだろう。『阿部完市句集』(1994)所収。(清水哲男)


September 1591999

 年寄の日と関はらずわが昼寝

                           石塚友二

いていの祝日は押しつけがましいが、敬老の日は、なかでも相当にいやな感じのする日だ。理由は、書くまでもないだろう。年寄りの気持ちも考えずに、各自治体では慰安会などを開いてお茶を濁すのが「敬老の日」だ。そんなお仕着せ行事に「関はらず」昼寝を決め込んだ作者に、拍手を送りたい。だいたい弁当つきやバスによる送迎つきの慰安会など、誰が嬉しいと思うものか。思うとすれば、手間のかかる老人が、その時間だけでも不在になる家族の誰かであろう。たまたま近隣の市の市報を見ていたら、慰安会の対象は60歳以上と書いてあった。げっ。となれば1938年生まれの私も、仮にここの市民であったとすると、出かけていって手品や歌謡ショーを見る資格があるわけだ。でも、仮に出かけたとして、下手な(失礼)芸人が帽子から鳩を出したり、「憧れのハワイ航路」などを歌う中身に耐えられるとは思えない。だいたい「慰安」という発想が、安易なのだ。発想が安易だから、ついでに芸人の芸も安易になる。自治体も芸人も、ともに「おじいちゃん、おばあちゃん」とひとまとめに老人を見下して失礼とも感じない鈍感さが、今日は全国的に我が物顔にまかりとおるのだ。こんな馬鹿なことに税金を使っている場合かよ。(清水哲男)




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