妊婦が乗ってきた。瞬間、バスが発車。誰だってよろけるじゃないか。人情紙の如し。




1999ソスN9ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1091999

 秋風や昼餉に出でしビルの谷

                           草間時彦

フィス街の昼時である。山の谷間に秋風が吹くように、ビルの谷にも季節を感じさせる風は吹く。秋だなアと風に吹かれながら、なじみの定食屋の暖簾をくぐると、おやじさんが「今日は鯖がうまいよっ。秋はやっぱりサバだねエ」などと声をかけてくる。そこで、ひょっとすると冷凍物かもしれない格安の「秋鯖の味噌煮」なんてものを注文する羽目になったりする。九月初旬、安い秋刀魚を出す店も大いにアヤしい。定食屋の多くは、しょせん舌の肥えていない、量ばかり要求する客を相手に商売をしているのだから、それでいいのである。仕事が順調であれば、それも楽しいのだ。が、そうでないときには、少々イヤミを言って引き上げる。そんなこんなで、春夏秋冬の過ぎていくサラリーマン生活。その哀歓が、さりげなく描かれている句だ。「昼餉」時という設定が、多くのサラリーマンの共感を呼ぶだろう。勤めた人にしかわからないが、なんでもないような昼餉時に、あれで結構ドラマは起きているのだ。珍しく上司に鰻屋にでも誘われようものなら、サア大変。社に戻るまでの秋風の身にしみることったら……。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


September 0991999

 竹の実に寺山あさき日ざしかな

                           飯田蛇笏

よろと頬を撫でる秋風のように、寺山の日はあさく、句も淡い。実に淡々としていて、水彩画のようなスケッチだ。が、この句の情景を実際に目の前にした人のほとんどは、「えらいこっちゃ」と大騒ぎをしていたはずである。作者のように、落ち着きはらってはいられなかったろう。竹に花が咲き実を結ぶのは、およそ六十年周期だからだ。六十年に一度しか、こういうことは起こらない。一生に一度、見られるかどうかの珍しい現象なのである。竹は「いね科」の植物だから、素人的にも、実を結ぶことに違和感はない。しかし、その形状や質感までは、見当もつかない。「いね」のように穂をつけて、たわわに稔って飢饉を救ったたという伝説はあるけれど、どんな「実」なのだろう。私は三十代に旧盆の故郷を訪れ、偶然に竹の花を見たことがある。竹林全体が、真っ黄色だった。「珍しいねえ」と私は言い、「これで山が駄目になる」と友人は暗い顔をした。カメラを持っていったのに、写真一枚撮れなかった。尻切れトンボだが、「9」という数字がたくさん並ぶ珍しい今日よりも、もっと珍しい句があったというわけで……。(清水哲男)


September 0891999

 おしろいが咲いて子供が育つ露路

                           菖蒲あや

しろい(白粉花)は、午後四時ごろから咲きはじめる。夜通し咲きつづけ、朝まで咲いている。夜の花だ。といって月下美人のような華麗さは微塵もなく、薄幸の庶民的な少女とでも呼びたいような風情である。事情があって夜の仕事についた少女が、おずおずと化粧をはじめる時刻に、この花も咲く。そんなイメージがあるので、長い間私は、そのあたりが命名の由来かと思っていた。が、大外れ。種子のなかにある白い粉の胚乳が、白粉のように見えるからなのだそうだ。チエッ、種子とは気がつかなかった。しかも、原産地は熱帯アメリカだという。なんのことはない、暑さを避けて咲いているだけの話じゃないか。根性のない花だ。夢が壊れた。でも、この句を観賞するためには、薄幸の少女像なんぞは邪魔になる。下町だろう、白粉花が咲くころに、学校から戻ってきた子供たちが、元気よく駆け回っている。昔の子供と同じように、この子供らもすくすく育っていくのだ。夕刻の露路の活気を詠んでいる。子供たちの元気に、作者も元気づけられている。(清水哲男)




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