東ティモールの事態は予測できただろう。選挙をやらせた連中は、だから知らん顔だ。




1999ソスN9ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0891999

 おしろいが咲いて子供が育つ露路

                           菖蒲あや

しろい(白粉花)は、午後四時ごろから咲きはじめる。夜通し咲きつづけ、朝まで咲いている。夜の花だ。といって月下美人のような華麗さは微塵もなく、薄幸の庶民的な少女とでも呼びたいような風情である。事情があって夜の仕事についた少女が、おずおずと化粧をはじめる時刻に、この花も咲く。そんなイメージがあるので、長い間私は、そのあたりが命名の由来かと思っていた。が、大外れ。種子のなかにある白い粉の胚乳が、白粉のように見えるからなのだそうだ。チエッ、種子とは気がつかなかった。しかも、原産地は熱帯アメリカだという。なんのことはない、暑さを避けて咲いているだけの話じゃないか。根性のない花だ。夢が壊れた。でも、この句を観賞するためには、薄幸の少女像なんぞは邪魔になる。下町だろう、白粉花が咲くころに、学校から戻ってきた子供たちが、元気よく駆け回っている。昔の子供と同じように、この子供らもすくすく育っていくのだ。夕刻の露路の活気を詠んでいる。子供たちの元気に、作者も元気づけられている。(清水哲男)


September 0791999

 れもん滴り夜に触れし香を昇らしむ

                           櫛原希伊子

もん(檸檬)の故郷はインド。ただし、日本が輸入しているのは、多くアメリカ西海岸からだ。一年中出回っているので季節感に乏しい果実だが、秋に実るので秋の季語とされてきた。句意は明瞭だ。ただし「れもん(を)絞り」ではなく「滴り」と詠んだところが、句品を高める技巧の妙と言うべきか。「絞り」と書けば主語は作者になるけれど、「滴り」の主語は「れもん」それ自体である。誰が絞って滴らせたわけでもない。すなわち、ここでの「れもん」は、あたかも神の御手が絞り給うたかのようにとらえられており、そのことを受けて作者は香を天に「昇らし」めている。夕食後の紅茶のひとときでもあろうか。「れもん」が貴重だったころの檸檬賛歌として、極めて上質な抒情句と言えよう。こんなふうに檸檬の香を大切にして楽しんだ時代が、懐しい。それに引き換え、何にでもレモンを添えてくる昨今の食べ物屋の無粋は、なんとかならないものか。最も腹が立つのは、コーラにまでくっつけてくる店だ。イヤだねえ、田舎者は。同じ田舎者として、恥ずかしくて顔が赤くなる。(清水哲男)


September 0691999

 柿が好き丸ごとが好き子規が好き

                           小川千子

学生の句ではない。それが証拠に、小学生の知らない人の名前が出てくる。子規が出てくる必然性も、小学生にはわかるまい。最近、とくに女性の作品に、こんな雰囲気の句が増えてきた。一言で言えば、主観的な断定に見せて、内実は読者に同意を求める体のものだ。例の「ワタシって、子供のころからカキが大好きじゃないですか」の俳句版である。私はその全てを否定しないし、この句も悪くはないと思う。悪くないと思う根拠は、「丸ごと」を投網のように柿と子規とに打ちかけている技巧に思いが及ぶからだ。しかし、この作法に未来はないだろう。「好き」なのは作者の勝手だが、その主観の吐露の構造のなかに含まれている「媚(こび)」に寛容である読者は少ないからである。ところで、瀕死の床にあっても、なお食いしん坊だった子規の明治三十四年(1901)の今日の献立は、次のようであった。朝、粥三腕と佃煮。昼、さしみ(かつを)と粥三、四腕にみそ汁と梨。間食には、西洋西瓜の上等のものを十五きれほど。夕食には粥三腕、あかえ、キャベツ、冷奴、梨一つ。夜、羊羮二切。作者・小川さんのおかげで、ひさしぶりに『仰臥漫録』をひろげる気分になった。俳誌「船団」(42号・1999年9月1日発行)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます