マンションの一室が、35年ローンで売りに出た。そんなに長持ちするとは嬉しいナ。




1999ソスN9ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0691999

 柿が好き丸ごとが好き子規が好き

                           小川千子

学生の句ではない。それが証拠に、小学生の知らない人の名前が出てくる。子規が出てくる必然性も、小学生にはわかるまい。最近、とくに女性の作品に、こんな雰囲気の句が増えてきた。一言で言えば、主観的な断定に見せて、内実は読者に同意を求める体のものだ。例の「ワタシって、子供のころからカキが大好きじゃないですか」の俳句版である。私はその全てを否定しないし、この句も悪くはないと思う。悪くないと思う根拠は、「丸ごと」を投網のように柿と子規とに打ちかけている技巧に思いが及ぶからだ。しかし、この作法に未来はないだろう。「好き」なのは作者の勝手だが、その主観の吐露の構造のなかに含まれている「媚(こび)」に寛容である読者は少ないからである。ところで、瀕死の床にあっても、なお食いしん坊だった子規の明治三十四年(1901)の今日の献立は、次のようであった。朝、粥三腕と佃煮。昼、さしみ(かつを)と粥三、四腕にみそ汁と梨。間食には、西洋西瓜の上等のものを十五きれほど。夕食には粥三腕、あかえ、キャベツ、冷奴、梨一つ。夜、羊羮二切。作者・小川さんのおかげで、ひさしぶりに『仰臥漫録』をひろげる気分になった。俳誌「船団」(42号・1999年9月1日発行)所載。(清水哲男)


September 0591999

 茄子の擦傷死ぬまでを気の急きどおし

                           池田澄子

性や気質とは、どうにもならないものなのだろうか。たいした理由もないのに気が急(せ)いて、茄子に擦り傷をつけてしまった。あるいは、気が急いているのに、茄子の擦り傷に目がとまり、またそこで苛立って、ますます気が急くことになった。そんな句意だろう。意外にも、総じて女性は短気だそうだから、女性の大半の読者には作者の気持ちがすぐに理解できるだろう。女性が勝負事に弱いのは短気のせいだと、プロの男性棋士に聞いたことがある。負けず劣らずに、私もまた本質的には気が短いので、この苛立ちはよくわかる。どうせ、死ぬまでこうなのだろう。と、自分に呆れ、自分を諦めている作者の顔が浮かんでくるようだ。漱石の『坊ちゃん』の冒頭部を引くまでもなく、とりわけて男の短気は無鉄砲にも通じ、子供のころからソンばかりしている。「短気は損気」と知っているので、余計に損を積み重ねる。くつろぎの場でも、いろいろと気短く神経が働いてしまい、どうしても呑気になれない不幸。私の飲酒癖も、元をたどればそのあたりに原因がある。酒が好きなのではない。酒でも飲まなければ、ゆったりした気分になれなかったのである。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


September 0491999

 一夜明けて忽ち秋の扇かな

                           高浜虚子

語は「秋の扇(秋扇)」であるが、「秋扇」という種類の扇があるわけではない。役立たずの扇。そんな意味だ。一夜にして涼しくなった。昨日まで使っていた扇が、忽ち(たちまち)にして不必要となった。すなわち「秋扇」になってしまったということ。並べて、虚子はこんな句もつくっている。「よく見たる秋の扇のまづしき絵」。暑い間はろくに絵など気にもしないで扇いでいたのに、不必要になってよく見てみたら、なんと下手っぴいで貧相な絵なんだろう。チェッと舌打ちしたいような心持ちだ。歳時記によっては「秋扇」を「暦の上での秋になってもなお使われている扇のこと」と解説していて、それもあるだろうけれど、本意は虚子の句のように、ずばり役立たずの扇と解すべきだろう。優雅でもなんでもありゃしない、単に邪魔っけな存在なのだ。とかく「秋」を冠すると、たいていの言葉が情緒纏綿たる風情に化けるのは面白いが、「秋扇」まで道連れにしてはいけない。「秋」に騙されるな。その意味で、虚子句は「秋扇」という季語の正しい解説をしてみせてくれてもいるのである。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)




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