防災もゴミも個人の問題。そうじゃない。個人の手前で問題を食い止めるのが国家だ。




1999ソスN9ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0591999

 茄子の擦傷死ぬまでを気の急きどおし

                           池田澄子

性や気質とは、どうにもならないものなのだろうか。たいした理由もないのに気が急(せ)いて、茄子に擦り傷をつけてしまった。あるいは、気が急いているのに、茄子の擦り傷に目がとまり、またそこで苛立って、ますます気が急くことになった。そんな句意だろう。意外にも、総じて女性は短気だそうだから、女性の大半の読者には作者の気持ちがすぐに理解できるだろう。女性が勝負事に弱いのは短気のせいだと、プロの男性棋士に聞いたことがある。負けず劣らずに、私もまた本質的には気が短いので、この苛立ちはよくわかる。どうせ、死ぬまでこうなのだろう。と、自分に呆れ、自分を諦めている作者の顔が浮かんでくるようだ。漱石の『坊ちゃん』の冒頭部を引くまでもなく、とりわけて男の短気は無鉄砲にも通じ、子供のころからソンばかりしている。「短気は損気」と知っているので、余計に損を積み重ねる。くつろぎの場でも、いろいろと気短く神経が働いてしまい、どうしても呑気になれない不幸。私の飲酒癖も、元をたどればそのあたりに原因がある。酒が好きなのではない。酒でも飲まなければ、ゆったりした気分になれなかったのである。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


September 0491999

 一夜明けて忽ち秋の扇かな

                           高浜虚子

語は「秋の扇(秋扇)」であるが、「秋扇」という種類の扇があるわけではない。役立たずの扇。そんな意味だ。一夜にして涼しくなった。昨日まで使っていた扇が、忽ち(たちまち)にして不必要となった。すなわち「秋扇」になってしまったということ。並べて、虚子はこんな句もつくっている。「よく見たる秋の扇のまづしき絵」。暑い間はろくに絵など気にもしないで扇いでいたのに、不必要になってよく見てみたら、なんと下手っぴいで貧相な絵なんだろう。チェッと舌打ちしたいような心持ちだ。歳時記によっては「秋扇」を「暦の上での秋になってもなお使われている扇のこと」と解説していて、それもあるだろうけれど、本意は虚子の句のように、ずばり役立たずの扇と解すべきだろう。優雅でもなんでもありゃしない、単に邪魔っけな存在なのだ。とかく「秋」を冠すると、たいていの言葉が情緒纏綿たる風情に化けるのは面白いが、「秋扇」まで道連れにしてはいけない。「秋」に騙されるな。その意味で、虚子句は「秋扇」という季語の正しい解説をしてみせてくれてもいるのである。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


September 0391999

 秋雲やふるさとで売る同人誌

                           大串 章

学の暑中休暇は長いので、秋雲が浮かぶころになっても、故郷にいる学生は少なくない。しかし、もうそろそろ戻らねば……。そんな時期になって、ようやく作者は友人や知り合いに同人誌を売る気持ちになった。入道雲の下で、そういう気持ちにならなかったのは、照れくさくて言い出しかねたからである。でも、大学に戻れば、仲間に「戦果(!?)」を報告しなければならない。宿題に追われる子供のように、ちょっぴり焦ってもいる。青春の一齣だ。作者の大串章と私は、学部は違ったが、同じ年度に京大に入った。一回生のときから、いっしょに同人誌も作った。「青炎」とか「筏」という誌名であった。したがって、句の同人誌には私の拙い俳句なんかも載っていたのかもしれず、彼に尋ねたことはないけれど、読むたびに他人事ではないような気がしてきた。大串君の青春句の白眉は、何といっても「水打つや恋なきバケツ鳴らしては」だ。「恋なき」を字句通りに受け取ることも可能だが、「恋を得ていない」と読むほうが自然だろう。片想い。か、それに近い状態か。我が世代の純情を、この句が代表している。『朝の舟』所収。(清水哲男)




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