近辺の八幡神社の例大祭が近い。通りに提灯など。それにしても、祭の多い国ですな。




1999ソスN9ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0291999

 少年一人秋浜に空気銃打込む

                           金子兜太

の浜。誰もいなくなった浜辺。少年がひとり、空気銃を撃っている。何をねらうでもなく、プシュップシュッと、ただ砂浜に「打込んで」いる。ターゲットがないのだから、手ごたえもない。その空しい気持ちに、作者は共感を覚えている。無聊(ぶりょう)をかこつのは、何も大人の特権ではない。少女についてはいざ知らず、少年の無聊はむしろ大人のそれよりも深刻かもしれない。退屈のどん底にあるとき、彼はそこから脱出する術や手がかりを知らない。やみくもに苛立って、ときにこうした奇矯な行為に及んだりする。こんなことをしても、救われないこともわかっている。わかっているのに、止めることができないのだ。プシュップシュッと、いつまでつづけるのか。そうやって大人になっていくのだと、作者は自身の過去を振り返ってもいる。空気銃独特の空しいような発射音が、寂しい秋浜の情景に似合っている。まだ子供たちが、自由に空気銃を遊び道具にしていた頃の句である。中学時代、叔父に借りた空気銃で、私は野良猫を撃っていた。遠くから撃つと、当たっても猫どもは「ふーん」というような顔をしていた。『金子兜太句集』(1961)所収。(清水哲男)


September 0191999

 九月来箸をつかんでまた生きる

                           橋本多佳子

佳子は生来の病弱で、とくに夏の暑さには弱かったという。したがって、秋到来の九月は待ちかねた月であった。涼しくなれば、食欲もわいてくる。「さあ、また元気に生きぬくぞ」の気概に溢れた句だ。それにしても「箸をつかんで」は、女性の表現としては荒々しい。気性の激しさが、飛んで出ている。なにしろこの人には、有名な「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」がある。この句を得たのは五十一歳。「箸をつかんで」くらいは、へっちゃらだったろう。しかも、この荒々しさには少しも嫌みがなく、読者もまた作者とともに、九月が来たことに嬉しさを覚えてしまうのである。九月来の句には感傷に流れるものが多いなかで、この句は断然異彩を放っている。ちなみに、若き日の多佳子は、これまた感情の起伏の激しかった杉田久女に俳句の手ほどきを受けている。「橋本多佳子さんは、男の道を歩く稀な女流作家の一人」と言ったのは、山口誓子である。(清水哲男)


August 3181999

 ミス六日町に汽笛二度鳴る薄の穂

                           守屋明俊

(すすき)の花穂(かすい)は「尾花」と呼ばれ、秋の七草の一つである。いっせいに風にそよぐ様子には、いわれなき寂寥感に誘われる。「六日町」とは、どこだろうか。新潟県にそういう地名があるけれど、そこかどうかは、句からだけではわからない。いずれにしても、小さな田舎町でのスケッチだろう。あたりいちめんに薄の生い茂る駅でのイベントだ。「ミス六日町」は、さしずめ一日駅長といったところか。テープカットがあったりくす玉が割られたりした後、彼女の合図で汽車が出ていく。景気よく、二度も汽笛を鳴らして……。既にここで作者の思いは、華やかな行事の果てに訪れる淋しさに及んでいる。それが「薄の穂」の、この句における役割だ。「ミス東京」が東京駅で新幹線を見送るのだったら、こうはいかない。句にならない。最近は女性差別に関わる問題もあってか、だいぶ「ミス・コンテスト」なるイベントの数も減ってきたようだ。全国各地で競うように「ミス・コン」が行われた時代もあり、なかには「ミス古墳」なんてのもあった。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)




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