八月尽。あなたには、どんな夏でしたか。私には近来にない夏バテ気味の季節でした。




1999ソスN8ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 3181999

 ミス六日町に汽笛二度鳴る薄の穂

                           守屋明俊

(すすき)の花穂(かすい)は「尾花」と呼ばれ、秋の七草の一つである。いっせいに風にそよぐ様子には、いわれなき寂寥感に誘われる。「六日町」とは、どこだろうか。新潟県にそういう地名があるけれど、そこかどうかは、句からだけではわからない。いずれにしても、小さな田舎町でのスケッチだろう。あたりいちめんに薄の生い茂る駅でのイベントだ。「ミス六日町」は、さしずめ一日駅長といったところか。テープカットがあったりくす玉が割られたりした後、彼女の合図で汽車が出ていく。景気よく、二度も汽笛を鳴らして……。既にここで作者の思いは、華やかな行事の果てに訪れる淋しさに及んでいる。それが「薄の穂」の、この句における役割だ。「ミス東京」が東京駅で新幹線を見送るのだったら、こうはいかない。句にならない。最近は女性差別に関わる問題もあってか、だいぶ「ミス・コンテスト」なるイベントの数も減ってきたようだ。全国各地で競うように「ミス・コン」が行われた時代もあり、なかには「ミス古墳」なんてのもあった。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


August 3081999

 秋灯の交し合ひたる閾かな

                           上野 泰

鹿みたい。次の間との襖が開けっぱなしになっていて、こちらの部屋と次の間とに灯されている電灯の光が、閾(しきい)の上で交差しているというのだ。「秋灯」ならずとも、いつでもこうした現象は見られるわけで、珍しくも何ともない。「秋灯」だから多少の情緒があるにしても、わざわざ表現するほどのことでもあるまいに。私の言葉で言えば、「それがどうした句」の最右翼に分類できる。いい年の大人が、こんなことを面白がって、どういうつもりなのか。と、ほとんどの読者もそう思うに違いない。俳句だから、こういう馬鹿が許されるのだ。ついでに言えば、虚子門だからとも……。なあんて酷評しながらも、最近はこうした「馬鹿みたい」な句に魅かれてしまう。才気溢れる句も好きではあるが、すぐに飽きてしまう。こういうことを言うと、「年齢(とし)のせいだ」と反応されそうだが、正直に言って「年齢のせいだ」と丸くおさめる気にはなれない。「年齢のせいだ」という理屈は、それこそ馬鹿みたいな屁理屈なのであって、とりわけて高齢者が溺れてはいけない言葉の一つだと思う。この句を得たときに、きっと作者も「馬鹿みたい」と感じただろう。あえてそんな「馬鹿」を表現する姿勢に、いまの私は魅力を覚える。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)


August 2981999

 下駄履いてすずしき河岸の往還り

                           尾村馬人

ういう句を読むと、いいなあ、と溜息が出る。河岸(かし)というのは魚河岸(うおがし)のことで、現在は築地にあるが、昭和の初め迄は江戸時代以来の日本橋にあった。作者の馬人は、明治42年生まれ。日本橋魚河岸問屋「尾久」の三男。久保田万太郎の「春泥」(今の「春燈」にあらず)に投句と、『現代秀句選集』(別冊「俳句」・平成10年刊)にある。魚河岸の人なのに、馬人とはこれいかに。何かいわれがあるのだろうか。万太郎門下には、このタイプの人が多い。近くは、鈴木真砂女さんがそうである。いずれも市世の生活を大事にして、日頃の生計(たつき)にいそしむ。そして、この生き方が句に生気を与え、日常句に気品を与える基となっているのである。季語は「すずし」で、夏。「往還り」は「ゆきかえり」。(井川博年)




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