介護保険導入に伴う自治体のデータ等電算化作業は大変らしい。金喰い虫跋扈の秋。




1999ソスN8ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2481999

 彼方の男女虫の言葉を交わしおり

                           原子公平

会の公園だろうか。それとも、もう少し草深い田舎道あたりでの所見だろうか。夕暮れ時で、あたりでは盛んに秋の虫が鳴きはじめた。ふと遠くを見やると、一組の恋人たちとおぼしき男女が語らっている様子が見える。が、見えるだけであって、むろん交わされている言葉までは聞こえてはこない。彼らはきっと、作者の周囲で鳴く虫と同じような言葉でささやきあっているのだろう。そんな錯覚にとらわれてしまった。が、錯覚ではあるにしても、人間同士の愛語も虫どものそれも、しょせんは似たようなものではあるまいか。と、そんなことを作者は感じている。すなわち、愛語は音声を発すること自体に重要な意味あいがあるのであって、言葉の中身にさしたる意味があるわけではない場合が多いからだ。皮肉は一切抜きにして、作者は微笑とともに、そういうことを言っているのだと思う。ああ、過ぎ去りし我が青春の日々よ。作者は、それから半ば憮然として、この場を足早に立ち去ったことだろう。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


August 2381999

 万屋に秋は来にけり棒束子

                           川崎展宏

然の様相の変化に移りゆく季節を感じるように、人工的な商店のしつらいからも、私たちはそれを感じる。洋品店のウィンドウなどが典型だろうが、昨今の反応は素早すぎて味気ない。万屋(よろずや)は生活雑貨全般を商う店で、かつてはどんな小さな村にも一軒はあった。洋品店とは逆に地味な動きしか見せないけれど、新しい季節のための商品が、やはり店先など目立つところに並べられる。この場合は、束子に長い柄をつけた棒束子(ぼうたわし)だ。四角四面に言うと季節商品ではないが、直接冷たい水に触れることなく掃除ができるという意味では、秋から冬にかけての需要が多いのだろう。店の入り口に立て掛けてある何本かの棒束子。昨日通りかかったときには、なかったはずだ。暑い暑いと言っているうちに、もう秋なのである。客がいないかぎり、万屋に店番はいない。そこで、表から大きな声で挨拶してから店に入る。万屋以外の店に入るのにも、必ず挨拶してから入った。現代では、無言のままにぬうっと入店する。時代も移ろいつつ進んでゆく。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


August 2281999

 これよりの心きめんと昼寝かな

                           深見けん二

題にぶち当たる。さあ、どうしたものか。これから「心をきめ」ようという大事なときに、昼寝をするというのは妙だと思われるかもしれない。が、私にはこういう気持ちがよく起きる。というのも、あれこれの思案の果てに疲れてしまうということがあり、思案の道筋をいったん絶ち切りたいという気持ちにもなるからである。思案の堂々巡りを中断し、また新しいアングルから難題を解くヒントを見つけるためには、一度意識の流れを切ってしまうことが必要だ。平たく言えば「ごちゃごちゃ考えても、しゃあない」ときがある。そんなときには、昼寝にかぎる。昼寝は夜の睡眠とは違って短いし、また明るい時間に目覚めることができる。そうした物理的な理由も手伝って、目覚めた後への期待が持てる。終日の思案の果てに就寝すると、一日を棒に振った気持ちになるが、そういうこともない。あくまでも小休止だと、心を納得させて眠りにつける。句は、そういうことを言っている。昼寝の句としては珍しいテーマと言えようが、人間心理の観察記録としては至極真っ当だと、私には読めた。『父子唱和』(1956)所収。(清水哲男)




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