甲子園は決勝戦。試合もさることながら、閉会式の空の色が楽しみ。まさに秋色だ。




1999ソスN8ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2181999

 ねる前にねましたと書く日記帳

                           森家裕美子

者は十四歳。中学二年生。例の伊藤園の「おーいお茶」コンテストでユニーク賞を受けた作品だ。「日記買ふ」は冬の季語であり「日記始」は新年のそれだが、単に「日記帳」といえば無季である。が、私などは夏休みの日記に悩まされたクチなので、夏を想起してしまった。まだ寝てもいないのに、何時に寝ましたと書くのは、確かに変だ。でも、一日の終りの行為は寝ることにあるのだから、寝ましたと書かないと一日が終了しない。日記帳を、閉じることができない。しごく素朴な疑問をストレートに詠んだがための「ユニーク」さがある。裕美子ちゃんは、真面目な女の子なのだ。ひるがえって、実はこの問題は、このページで書いている他ならぬ私自身の問題でもある。ページが午前零時にオートマティックに次の日の内容に切り替わるので、寝る前に「今宵は大文字の送り火……」などと、次の日のことを書くときには、なんとなく後ろめたくなったりする。となると、私にも裕美子ちゃん並みの真面目さがあるということなのだろうか。この句に出会って、正直ホッとした。私だけが、ひとりでクヨクヨしているわけではなかったのだ。「自由語り」(1997)所載。(清水哲男)


August 2081999

 油蝉死せり夕日へ両手つき

                           岡本 眸

ろそろ、油蝉の季節も終りに近づいてきた。地上に出てきた蝉の寿命は短いから、夏の間蝉はいつでも死につづけている理屈だが、この句は夕日を強調していることもあり、初秋に近い作品だろう。偶然の死に姿とはわかっていても、その夕日に謝しているような姿勢が、心を有したものの最期のように思えてくる。激しくも壮烈な死を遂げた、という感じだ。荘厳ですらある。作者は見たままに詠んでいて、格別の作為はない。そこが、よい。見事という他はない。このところ、放送の仕事が終わると、バス・ストップまで西日を正面から浴びて歩く。それだけで、汗だくになる。バスに乗ったら乗ったで、その強烈な陽射しが、冷房を利かせないほどだ。とても、夕日側の窓の席に着く度胸はない。少々混んでいても、そんな席だけはぽつりぽつりと空いているのだから、物凄い暑さである。バスを降りて五分ほど、今度は蝉しぐれと排気ガスでむうっとした道を帰る。そういえば、今年はまだ蝉の抜け殻も死骸も見ていない。『冬』(1976)所収。(清水哲男)


August 1981999

 茄子焼いて牛の生れし祝酒

                           太田土男

の仔が無事に生まれた。出産に立ち合った男たちの顔に、安堵の表情が浮かぶ。農家にとっては一財産の誕生だから、当然、すぐに祝い酒となる。とりあえずは茄子をジュージューと焼き、冷や酒で乾杯する。野趣溢れる酒盛りだ。ところで、この句は角川版歳時記の季語分類によると「茄子の鴫焼(なすのしぎやき)」の項目に入っている。「茄子の鴫焼」は、茄子を二つに割って焼き、きつね色になったら練り味噌を塗り、さらに焼き上げる。どちらかといえば手間をかけた上品な料理だが、この場合、そんなに面倒な焼き方をするだろうか。と、かつての農家の子は首をかしげている。私の田舎では、単純に茄子を二つに割って焼き、醤油をざぶっとかけて食べていた。ただし、そうやって焼く茄子は、普通の茄子ではなくて、白茄子と呼んでいた大振りの茄子である。本当の色は白ではなくて、瓜に近い色だったが。作者に尋ねてみないとわからないことだけれど、句の勢いからして、どうも鴫焼ではなさそうな気がする。検索ページでは「茄子」からも「茄子の鴫焼」からも引けるようにしておく。(清水哲男)




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