東京は昨夜から本降り。いま、はたた神(雷)も激しくお怒りです。(午前8時半)。




1999ソスN8ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1481999

 づかづかと来て踊子にさゝやける

                           高野素十

句で「踊子」といえば、盆踊りの踊り手のこと。今夜あたりは、全国各地で踊りの輪が見られるだろう。句の二人は、よほど「よい仲」なのか。輪のなかで踊っている女に、いきなり「づかづか」と近づいてきた男が、何やらそっと耳打ちをしている。一言か、二言。女は軽くうなずき、また先と変わらぬ様子で輪のなかに溶けていく。気になる光景だが、しょせんは他人事だ……。夜の盆踊りのスナップとして、目のつけどころが面白い。盆踊りの空間に瀰漫している淫靡な解放感を、二人に代表させたというわけである。田舎の盆踊りでは句に類したこともままあるが、色気は抜きにしても、重要な社交の場となる。踊りの輪のなかに懐しい顔を見つけては、「元気そうでなにより」と目で挨拶を送ったり、「後でな……」と左手を口元に持っていき、うなずきあったりもする。こういう句を読むと、ひとりでに帰心が湧いてきてしまう。もう何年、田舎に帰っていないだろうか。これから先の長くはあるまい生涯のうちに、果たして帰れる夏はあるのだろうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


August 1381999

 灯籠や美しかりし母とのみ

                           河原白朝

盆に、はるばる十万億土から還ってくる精霊を迎えるために灯す燈籠。この句は、十年以上も前に、TOKYO FMの番組で紹介したことがある。その頃に毎朝放送していた俳句を集めて、後にラジオそのままの語り口を生かし(イラストレーションをつけてくれた友人の松本哉君が、毎朝筆記してくれていた…)て、『今朝の一句』(河出書房新社・1989)という本になった。哀しいかな絶版になってしまったので、ここに再録しておきたい。「仏さまを迎える盆燈籠を吊っているというお宅も多いかと思いますが、作者のまだ小さい頃、物ごころがつかない頃に、作者のお母さんは亡くなっているわけですね。それで、生前のお母さんを知っている人が、君のお母さんはほんとにきれいな人だったよと、いつもこの時期にしのんでくれる。でも、写真一枚残っていない。悲しい句です……」。何度読み返しても、悲しい句であり、美しい句だ。「去る者は日々に疎し」とも言うけれど、作者の場合は逆であろう。美しかったお母さんに、一読者でしかない私も、合掌します。(清水哲男)


August 1281999

 晩年も西瓜の種を吐きちらす

                           八木忠栄

にはもう、その心配はないけれど、見合いの席に出てくると困る食べ物が二つある。一つは殻つきの海老料理で、もう一つが西瓜だ。どちらも、格好をつけていては、食べにくいからである。海老に直接手を触れることなく、箸だけで処理して口元まで持ってくるような芸当は、とうてい私のよくするところではない。西瓜にしても、スプーンで器用に種を弾き出しながら上品に食べる自信などは、からきしない。第一、西瓜をスプーンですくって食べたって、美味くないだろうに。ガブリとかぶりついて、種ごと実を口の中に入れてしまい、ぺっぺっと吐きちらすのが正しい食べ方だ。吐きちらすとまではいかなくとも、種はぺっぺっと出すことである。私が子供のころは、男も女もそうやって食べていたというのに、最近は、どうもいけない。だから、句の作者も、そんな風潮に怒っている。この句は、ついに生涯下品であった人のことを詠んでいるのではない。俺は死ぬまで、西瓜の種を吐きちらしてやるぞという「述志」の句なのだ。事は、西瓜の種には止まらない。世の中のあれやこれやが、作者は西瓜の食べ方のように気にいらないのである。個人誌「いちばん寒い場所」30号(1999年8月15日付)所載。(清水哲男)




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