「向こう通るはジープじゃないか、見れば軽そなハンドルさばき…」。戦後の流行歌。




1999ソスN8ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1281999

 晩年も西瓜の種を吐きちらす

                           八木忠栄

にはもう、その心配はないけれど、見合いの席に出てくると困る食べ物が二つある。一つは殻つきの海老料理で、もう一つが西瓜だ。どちらも、格好をつけていては、食べにくいからである。海老に直接手を触れることなく、箸だけで処理して口元まで持ってくるような芸当は、とうてい私のよくするところではない。西瓜にしても、スプーンで器用に種を弾き出しながら上品に食べる自信などは、からきしない。第一、西瓜をスプーンですくって食べたって、美味くないだろうに。ガブリとかぶりついて、種ごと実を口の中に入れてしまい、ぺっぺっと吐きちらすのが正しい食べ方だ。吐きちらすとまではいかなくとも、種はぺっぺっと出すことである。私が子供のころは、男も女もそうやって食べていたというのに、最近は、どうもいけない。だから、句の作者も、そんな風潮に怒っている。この句は、ついに生涯下品であった人のことを詠んでいるのではない。俺は死ぬまで、西瓜の種を吐きちらしてやるぞという「述志」の句なのだ。事は、西瓜の種には止まらない。世の中のあれやこれやが、作者は西瓜の食べ方のように気にいらないのである。個人誌「いちばん寒い場所」30号(1999年8月15日付)所載。(清水哲男)


August 1181999

 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉

                           夏目漱石

要。僧侶が木魚をポンポンと叩いたら、中で昼寝を決め込んでいた蚊が、飛んで出てきた。それがまた、あたかも木魚が自分で吐いたかのように出てきたというのだから、少なくとも数匹はいたのだろう。「いやあ、驚いたのなんの」と、飛んで出た蚊が言ったかどうかは知らないが、落語好きな漱石ならではの軽妙な句だ。実はこの句ができる四年前に、もう一句「木魚」を詠んだ句「こうろげの飛ぶや木魚の声の下」がある。「こうろげ」は虫の蟋蟀(こおろぎ)。先の蚊の句は、おそらくこの句が下敷きになっていると思われるが、「こうろげ」句よりは洒脱でずっと良い。ところで「こうろげ」句は、二十五歳で早逝した兄の妻・登世の通夜での思いを詠んでいる。登世は漱石が唯一「美人」と言い切った女性であり、死なれた悲しみは深かったようだ。つまり、洒脱に俳句を作る心境になどなくて、こういう句になったということだが、そんな事情を知ると、かなり読む意識が変わってくる。予備知識なしに読んだときとは、句の味も違ってくる。でも、これが俳句というものだろう。予備知識の有無による観賞の差異の問題は、長く俳句の読者を悩ませつづけてきた。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


August 1081999

 学校の月下美人を持ち帰る

                           光成晶子

下美人とはサボテンの一種で、夏の夜まっ白で大輪の花が咲き、数時間でしぼむ……と『新明解国語辞典』にある。神秘的な名と、あまり見かけない花とあって、最近では人気の季語となっている。その月下美人の鉢植えを、学校から家に持ち帰るというのが愉快。生徒が夏休み中の職員室に入り込み、盗んできたのかもしれない。又は、作者が学校の先生か職員で(どうもそのようですが)、保護のために家に持ち帰ったのかもしれない。いずれにしても、この月下美人の運命は、いかなることにあいなりましょうか。作者の光成さんは若い女性で、詩を書くときは「成田ちる」と名乗っている。この句は、彼女の個人誌に発表された俳句の一つ。他にも、いい句があります。(井川博年)




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