iMacがやってきた。先ずオマケのソフトを捨てる。調教するのに冬までかかりそう。




1999ソスN8ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1081999

 学校の月下美人を持ち帰る

                           光成晶子

下美人とはサボテンの一種で、夏の夜まっ白で大輪の花が咲き、数時間でしぼむ……と『新明解国語辞典』にある。神秘的な名と、あまり見かけない花とあって、最近では人気の季語となっている。その月下美人の鉢植えを、学校から家に持ち帰るというのが愉快。生徒が夏休み中の職員室に入り込み、盗んできたのかもしれない。又は、作者が学校の先生か職員で(どうもそのようですが)、保護のために家に持ち帰ったのかもしれない。いずれにしても、この月下美人の運命は、いかなることにあいなりましょうか。作者の光成さんは若い女性で、詩を書くときは「成田ちる」と名乗っている。この句は、彼女の個人誌に発表された俳句の一つ。他にも、いい句があります。(井川博年)


August 0981999

 朝顔や濁り初めたる市の空

                           杉田久女

女の代表作。既に二女の母だった三十八歳(1927)の作である。「市(いち)」は、彼女が暮らしていた小倉の街だ。このころの久女は、女学校に図画と国語を教えにいったり、手芸やフランス刺繍の講習会の講師を勤めるなど、充実した日々を送っていた。そうした生活が反映されて、まことに格調高く凛とした一句となった。今朝も庭に咲いた可憐な朝顔の花。空を見上げると小倉の街は、はやくも家々の竃(かまど)からの煙で、うっすらと濁りはじめている。朝顔の静けさと市の活気との対照が、極めてスケール大きく対比されており、生活者としての喜びが素直に伝わってくる。朝顔は夏に咲く花だけれど、伝統的には秋の花とされてきた。ついでに言えば「ひるがお科」の花である。久女は虚子門であり当然季題には厳しく、秋が立ってから詠んだはずで、「濁り初めたる市の空」にはすずやかな風の気配もあっただろう。まだスモッグなど発生しなかった時代の都会の空は、濁り初めても、かくのごとくに美しかった。『杉田久女句集』(1952)所収。(清水哲男)


August 0881999

 秋来ぬと目にさや豆のふとりかな

                           大伴大江丸

う秋か。今日からは残暑の時季。さて、立秋の歌といえば、なんといっても『古今集』にある藤原敏行「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」が有名だろう。が、「秋来ぬ」とは言うものの、昨日に変わらぬ今日の暑さであり、まだまだ暑い盛り。周囲の環境に何の秋らしい変化も認められないが、しかし、吹く風のなかには、かすかに秋の気配が立ち上がっているようである、と。秋は、風が連れてくるのだ。作者の大江丸(おおえまる)はこの歌を踏まえて、いたずらっぽく詠み替えている。にやりとしている。敏行の乙にすました貴族的な顔も悪くはないけれど、庶民にとっては微妙な「風の音」なんかよりも太った「さや豆」のほうが大切だと、いかにも大阪人らしい発想だ。「風流の秋」よりも「食欲の秋」だと詠むのも、また「風流」と言うべきか。大江丸は18世紀の大阪の人で、飛脚問屋を営んでいたという。たしかに「腹がへっては仕事にならぬ」ハードな商売ではある。(清水哲男)




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