雲は湧き光りあふれて。さあ、甲子園。昔はよく見に行って記念のTシャツを着てた。




1999ソスN8ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0881999

 秋来ぬと目にさや豆のふとりかな

                           大伴大江丸

う秋か。今日からは残暑の時季。さて、立秋の歌といえば、なんといっても『古今集』にある藤原敏行「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」が有名だろう。が、「秋来ぬ」とは言うものの、昨日に変わらぬ今日の暑さであり、まだまだ暑い盛り。周囲の環境に何の秋らしい変化も認められないが、しかし、吹く風のなかには、かすかに秋の気配が立ち上がっているようである、と。秋は、風が連れてくるのだ。作者の大江丸(おおえまる)はこの歌を踏まえて、いたずらっぽく詠み替えている。にやりとしている。敏行の乙にすました貴族的な顔も悪くはないけれど、庶民にとっては微妙な「風の音」なんかよりも太った「さや豆」のほうが大切だと、いかにも大阪人らしい発想だ。「風流の秋」よりも「食欲の秋」だと詠むのも、また「風流」と言うべきか。大江丸は18世紀の大阪の人で、飛脚問屋を営んでいたという。たしかに「腹がへっては仕事にならぬ」ハードな商売ではある。(清水哲男)


August 0781999

 校庭に映画はじまるまでの蝉

                           大牧 広

かが、野外映画会の句を作っているはずだと、長年探していた。遂に、見つけた。平凡な句ではあるけれど、私には嬉しい作品だ。若い読者のために説明しておくと、敗戦後の一時期、娯楽に飢えた人々を癒すため(商売ではあったけれど)に、映画館がなかったり遠かったりする村や町では、巡回映画と称した映画会が開かれていた。句のように、たいていは学校の運動場が会場だった。まだ蝉の声しきりの明るいうちから、オート三輪に映写機材やフィルムの缶を乗せたおじさんがやってきて、校庭に大きな白い布のスクリーンを張り、暗くなると、二カ月ほど前くらいの古いニュース映画とメインの劇映画を上映する。料金は忘れたが、子供といえども無料ではなかった。映画館のように囲いもないのだから、料金を払わなくても見ることは可能だった。が、タダで見た人は一人もいなかっただろう。おじさんの目ではなくて、村社会の監視の目が、そういうことを許さなかったからだ。大人も子供も、蝉しぐれの校庭で、間もなくはじまる映画への期待に、いささか興奮している。そんな気分のなかに、作者も一枚加わっている。校庭映画で、小学生の私は谷口千吉監督、黒沢明脚本、三船敏郎出演の『銀嶺の果て』(東宝・1947)などを見た。(清水哲男)


August 0681999

 蝉しぐれ窓なき部屋を借りしと次子

                           古沢太穂

暑。季節が季節だけに、次子からのこの報告は、我が身にもこたえる。窓のない部屋、粗末なアパートの一室を借りたというのである。たしかに家賃は安いだろうが、いかにも不憫だ。何とかしてやろうにも、親の側も手元不如意。どうにもならない身を責めるように、蝉たちがしぐれのごとく鳴いている。単なる出来事のレポートだけれど、燃えるような夏の暑さが、よく伝わってくる。アパートといえば、外観からはうかがいしれぬ様々な部屋がある。不動産屋で調べて行ってみると、たしかに四畳半は四畳半だが、三角の部屋だったりしたこともある。窓があるにはあっても、開けると間近に隣の建物の壁しか見えない部屋も。山本有三の『路傍の石』には、アパートではないけれど、垂直の階段を上り下りする屋根裏部屋が出てくる。階段というよりも梯子だ。今だって、みんながみんな、テレビドラマに出てくるようなしゃれた部屋に居住しているわけではない。窓のない部屋の人もいるだろう。が、街に出ている人の服装や様子は、みんな同じように見える。それが「街」という空間なのだろうけれど。『火雲』(1982)所収。(清水哲男)




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