SEを廃棄。ちゃんと日本語の出来る初のMacだった。マシンに先立たれるのも哀しい。




1999ソスN8ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0581999

 小流れに指しびれけりお花畑

                           森田 峠

語のなかには、時々首をかしげたくなるものがある。「お花畑」もその一つで、季節は夏。単に「花畑」というと秋の季語になるから、ややこしい。「お花畑」は、夏になって高山植物がどっと花を開いた状態を指すのであって、平地の花畑ではないのだ。平井照敏氏の『新歳時記』(河出文庫版)によれば、本意は「登山が盛んになってからの季題で、「お」をつけて、その清浄美をあらわす」とある。そうかなあ。「お」一文字に、そんな力があるかなあ。と、首をかしげていても仕方がないが、このことがわかって、はじめて「小流れ」の冷たさの意味が理解できる。そういえば、もう二十年ほども前になるか。一度だけ、信州は白馬岳で「お花畑」とは露知らずに「お花畑」を見たことがある。カンカン照りだったけれど、さほど暑さも感じられず、さまざまな色に咲き揃った花々の姿は見事に美しかった。天に近い。そんな実感だった。ペンションが流行しはじめたころで、脱サラ(これまた流行)の人がやっているところで宿泊した。食堂に流れていた音楽は、クラシック。私も若かったが、世の中も十分に若かった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


August 0481999

 浴衣着て素肌もつとも目覚めけり

                           古賀まり子

でいるときよりも、何かを着たときのほうが肌の感覚を意識する。ぴしりと折り目のついた浴衣は、湯上がりに着ることが多いので、なおさらである。それを作者は「目覚める」と詠んだ。夜の「目覚め」だ。浴衣のルーツは知られているように、読んで字の如く、もともとは入浴のときに着たものである。蒸し風呂だったからで、湯に直接入る習慣は近世以降からと言われる。したがって表に着て出るなどはとんでもない話だったわけで、ぼつぼつ外着となってきたのは明治のころからのようだ。盆踊りの季節。ひところ衰えていた浴衣人気が、とくに若い女性を中心に盛り返してき、そこここで浴衣姿を見かけるようになった。帯と下駄をセットにして、壱万円を少し越える値段で売られている。最近見かける定番の姿は、下駄をはかずに厚底サンダルをはき、ケータイ(携帯電話)を手にぶら下げるといういでたち。澁谷の街あたりでは、ごく普通のスタイルである。厚底サンダルは、元来が歩きにくい履き物なので、闊歩できない不自由さが、かえって浴衣に似合う歩き方になるという皮肉。(清水哲男)


August 0381999

 腹当や男のやうな女の子

                           景山筍吉

当(はらあて)は、寝冷えを防ぐための腹巻き。腹掛。小学生の頃まで、私も腹巻きをして寝ていたような記憶がある。小さな子供用のものは、金太郎のように紐をつけて首から吊り、背中で結ぶ。最近はとんと見かけなくなり、夏の項目から削除してしまった歳時記もある。住環境の変化のせいだろう。昼寝のあとの子供が、そのまんまの格好で、よく戸外で遊んでいたものだ。句も、そうした子供の姿をとらえている。金太郎の腹当をしているし、動きも活発だから、男の子かとよく見たら、そうではなかったというわけ。いつの時代にも、こういうタイプの元気な女の子はいるもので、私は好きだ。どうかすると、一緒に遊んでいる男の子が泣かされたりする。小山靖昭に「腹掛の腹ふくらます母の前」があり、子供が母親に蛙のように腹をふくらませて見せている。こちらは、男の子。女性が、はじめてのブラジャーでみずからの乳房の存在を強く意識するように、子供の腹掛けだって、明確に腹の存在意識につながるということだろう。(清水哲男)




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