就職難。再就職難。労働運動が高揚しないのが不思議だ。組合までもがミー・イズム。




1999ソスN7ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2871999

 草のなかでわれら放送している夏

                           阿部完市

送マンのはしくれとして、目についた以上は、取り上げないわけにはいかない句だ。キーワードはもとより「放送」であるが、さて、どんな意味で使用されているのか。草っ原にマイクロフォンがあるわけもなし、通常の意味での「放送」ではないだろう。普通の意味から少し飛躍して、放電現象のようなことを指しているような気がする。すなわち、暑い夏の野原にある「われら」が、それぞれにそれぞれの思いを、無言のうちに身体から放電しているといった状態だ。主語を「われら」と束ねたのは、それぞれの思いが、お互いに語らずとも、作者には同じ方向に向いていることがわかっているからだ。が、カミュの『異邦人』ではないけれど、焼けつくような太陽のせいで、ここでの「われら」は、もしかすると幻かもしない。周囲には、誰もいないのだ。となれば、いわば「放電」と「放心」の境界で成立しているような句であるのかもしれぬ。ともあれ、暑さを暑さのままに、その最中(さなか)のぼおっとした感覚を半具象的に捉えた句として、記憶しておきたい。『にもつは絵馬』(1974)所収。(清水哲男)


July 2771999

 ありそうでついにない仲ところてん

                           小沢信男

き氷や蜜豆くらいならばまだしも、ところてん(心太)は目掛けて食べに行くようなものではない。ちょっと休憩と店に入り、たまたま品書きで見つける程度の存在感の薄い嗜好品だ。しかも「心太ひとり食うぶるものならず」(山田みづえ)とあって、確かにひとり心太を食べる図というのも似合わない。句のように、男女の場つなぎの小道具みたいなところがある。このとき「ところてん」ではなく「かき氷」や「蜜豆」では、逆に絵にならない。あくまでも少々陰気な「ところてん」がふさわしいのだ。なんとなく、二人の仲が曰くありげに見えてくるではないか。でも、目の前の相手との曰くは「ありそうでついにない」という仲。「ありそう」だったのは昔のことで、「ついにない」まま過ぎてきた。それでいいのさ、と作者は微笑している。相手の女性も、同じ気持ちだろう。いささかの恋愛感情を含んだ大人の男女の微妙な友情が、さりげなく詠まれていて心地好い。あまり美味いとは思わないが、そんな誰かと裏町のひっそりとした店で「ところてん」を食べたくなってくる。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


July 2671999

 琴の音や片蔭に犬は睡りつつ

                           藤田湘子

暑の昼下がり。さすがの犬もぐったりとなって、片蔭に睡っている。そんな光景のなかに、どこからか琴の音が流れてくる。近くに、琴を教える家があるのだろう。琴の音はそれ自体でもすずやかだが、和服姿で弾いている人の凛とした姿までが想像されて、一服の清涼剤のように感じられる。犬はと見れば、馬耳東風ならぬ「犬耳琴音」で、ぴくりとも動かない。この対比が面白い。いまでこそ琴を教える家は減ったけれど、昔は今のピアノ教室のように、そこここに見られたものだ。琴が、良家の娘のたしなみの一つだったこともあるだろう。だから、句は特別な場面や土地柄を詠んでいるわけではない。ありふれた真夏の町のスケッチである。犬にも鎖はついていない。いまどきの犬が知ったら羨望を禁じえないであろう、放し飼いの犬なのだ。まことにもって、往時茫々。京都での学生時代、私は琴ではなく妙に三味線に縁があって、連続して小唄と長唄の師匠の家に下宿した。しかし、真夏の昼間の三味線の音、あれはいけない。犬もハダシで(笑)逃げ出すほどの暑苦しい音である。『途上』(1955)所収。(清水哲男)




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