ジャックのためのジャック。犯人の匿名性は、精神異常よりも突出した幼児性にある。




1999ソスN7ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2671999

 琴の音や片蔭に犬は睡りつつ

                           藤田湘子

暑の昼下がり。さすがの犬もぐったりとなって、片蔭に睡っている。そんな光景のなかに、どこからか琴の音が流れてくる。近くに、琴を教える家があるのだろう。琴の音はそれ自体でもすずやかだが、和服姿で弾いている人の凛とした姿までが想像されて、一服の清涼剤のように感じられる。犬はと見れば、馬耳東風ならぬ「犬耳琴音」で、ぴくりとも動かない。この対比が面白い。いまでこそ琴を教える家は減ったけれど、昔は今のピアノ教室のように、そこここに見られたものだ。琴が、良家の娘のたしなみの一つだったこともあるだろう。だから、句は特別な場面や土地柄を詠んでいるわけではない。ありふれた真夏の町のスケッチである。犬にも鎖はついていない。いまどきの犬が知ったら羨望を禁じえないであろう、放し飼いの犬なのだ。まことにもって、往時茫々。京都での学生時代、私は琴ではなく妙に三味線に縁があって、連続して小唄と長唄の師匠の家に下宿した。しかし、真夏の昼間の三味線の音、あれはいけない。犬もハダシで(笑)逃げ出すほどの暑苦しい音である。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


July 2571999

 蝉の家したい放題いませねば

                           藤本節子

者は、やかましいほどの蝉時雨を浴びている家にいる。でも、ちっとも不愉快じゃない。むしろ、蝉時雨に拮抗できるほどの元気が、作者にも、そして家族にもあるということだ。病人一人いるわけじゃなし、みんなが元気という、いわば一家の盛りの夏である。とはいえ、この家のこうした元気もいつかは衰えていくだろう、そう長くはつづくまいと、作者は予感している。すでに家中に、かすかな兆しが見えはじめているのかもしれない。だからこその、今のうちなのだ。誰に気兼ねをすることもなく、したい放題自由にふるまう時間は短いだろうから、何でも好きなことをやっておかねば……。俳句にしては、珍しく明朗で愉快なメッセージが伝わってくる。私などは「元気だなあ」と半ば呆れ、半ば感心させられる句境だ。ところで、作者の「したい放題」とは、何だろうか。おそらく、作者にもよくわからないのではないか。とにかく「したい放題」何でもやるのだという元気な決意が、沸き立つ蝉の声を貫いて読者に届けば、それが作者の本意なのだと思う。(清水哲男)


July 2471999

 夕端居髪ふれゆきしものは誰か

                           小倉涌史

房装置などなかったころ、人は家の縁側や風通しのよい所に涼を求めた。これが「端居(はしい)」。仕事を終えた夕刻、そんな人の姿をよく見かけたものだ。庭では、まだ薄明るいのに、闇を待ちかねた子供らが花火に興じていたりした。作者は現代の人だが、冷房を嫌ってか、縁先に出ている。昼間の仕事に疲れていたのかもしれない。ぼんやりと表を眺めていると、かすかに髪の毛をさわられた感じがしたというのだ。誰も背後を通った気配もなく、たとえ通ったとしても、大人の髪をさわって通る人はいないだろう。でも、たしかに誰かが、髪に触れていったという感触が残った。見回しても、誰もいない。錯覚だろうか、幻覚だろうか。いずれにせよ、作者の鋭敏な感覚が紡ぎだした不思議な世界であり、しかも読者に「ありうること」と納得させる力のある句だ。そして、この句を得たほぼ一年後(1998)に、作者・小倉涌史は急逝することになる。さすれば「ふれゆきしもの」は、あるいは神であったのかもしれぬ。お会いしたことはないが、一歳年下の小倉さんは開設当初からの読者であり、種々アドバイスもしていただいた仲だった。今日が命日。彼の才能を惜しむ。なんで他の人の句を掲げられようか。遺句集『受洗せり』(角川書店・1999)所収。(清水哲男)




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