暑さ最高潮。原稿絶不調。毎夏同じ。…とも言っていられない。ああ、才能が欲しい。




1999ソスN7ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2571999

 蝉の家したい放題いませねば

                           藤本節子

者は、やかましいほどの蝉時雨を浴びている家にいる。でも、ちっとも不愉快じゃない。むしろ、蝉時雨に拮抗できるほどの元気が、作者にも、そして家族にもあるということだ。病人一人いるわけじゃなし、みんなが元気という、いわば一家の盛りの夏である。とはいえ、この家のこうした元気もいつかは衰えていくだろう、そう長くはつづくまいと、作者は予感している。すでに家中に、かすかな兆しが見えはじめているのかもしれない。だからこその、今のうちなのだ。誰に気兼ねをすることもなく、したい放題自由にふるまう時間は短いだろうから、何でも好きなことをやっておかねば……。俳句にしては、珍しく明朗で愉快なメッセージが伝わってくる。私などは「元気だなあ」と半ば呆れ、半ば感心させられる句境だ。ところで、作者の「したい放題」とは、何だろうか。おそらく、作者にもよくわからないのではないか。とにかく「したい放題」何でもやるのだという元気な決意が、沸き立つ蝉の声を貫いて読者に届けば、それが作者の本意なのだと思う。(清水哲男)


July 2471999

 夕端居髪ふれゆきしものは誰か

                           小倉涌史

房装置などなかったころ、人は家の縁側や風通しのよい所に涼を求めた。これが「端居(はしい)」。仕事を終えた夕刻、そんな人の姿をよく見かけたものだ。庭では、まだ薄明るいのに、闇を待ちかねた子供らが花火に興じていたりした。作者は現代の人だが、冷房を嫌ってか、縁先に出ている。昼間の仕事に疲れていたのかもしれない。ぼんやりと表を眺めていると、かすかに髪の毛をさわられた感じがしたというのだ。誰も背後を通った気配もなく、たとえ通ったとしても、大人の髪をさわって通る人はいないだろう。でも、たしかに誰かが、髪に触れていったという感触が残った。見回しても、誰もいない。錯覚だろうか、幻覚だろうか。いずれにせよ、作者の鋭敏な感覚が紡ぎだした不思議な世界であり、しかも読者に「ありうること」と納得させる力のある句だ。そして、この句を得たほぼ一年後(1998)に、作者・小倉涌史は急逝することになる。さすれば「ふれゆきしもの」は、あるいは神であったのかもしれぬ。お会いしたことはないが、一歳年下の小倉さんは開設当初からの読者であり、種々アドバイスもしていただいた仲だった。今日が命日。彼の才能を惜しむ。なんで他の人の句を掲げられようか。遺句集『受洗せり』(角川書店・1999)所収。(清水哲男)


July 2371999

 傘さしてやや屋根裏となるキューリ

                           あざ蓉子

のことやら、よくわからない。が、あざ蓉子の句はそれでよいのである。彼女は、いわば「言葉の衝突」からポエジーを生み出す作家だから、句に理屈を求めても無駄である。日常的な次元で「意味」の成立するすれすれのところで、ひょいと体をかわすのが特長。その面白さを、感覚的に味わうのがいちばんだ。かといって、もちろん目茶苦茶というのではない。ちゃんと、効果は計算されている。上五中七までは、実に巧みで理屈的にもよくわかる。誰だって傘をさしたときには、屋根裏めいたように感じるときはあるだろう。問題は「キューリ」だ。句をストレートに読み下せば、傘をさしているのは「キューリ」になるけれど、それはあまりに無理な読みようなので、下七は上中十二との「衝突」をねらった企みと見た。いささか陰欝な屋根裏気分のなかに、すうっと一本のキューリが故なく差し込まれた感じ。このとき、途端に人は何を感じるだろうか。これで何も感じない読者がいるとすれば、作者の負けである。でも、そんなはずはないと、作者はキューリをぬっと突き出している。上中の巧みさよりも、結局はキューリのほうに心が残ってしまう不思議な句だ。俳誌「花組」(1999年・夏号)所載。(清水哲男)




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