立ち上げるときに、愛機がキーキー言いだした。老衰か。いつプツッと切れるのか。




1999ソスN7ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1671999

 「三太郎の日記」も黴の書となれり

                           湯沢遥子

太郎といっても、漫画の主人公ではない。阿部次郎著『三太郎の日記』の青田三太郎のことだ。一知識人としての人生的哲学的懊悩を書きつづった内省の書とでも言うべきか。大正期から昭和初期にかけてのベストセラーだったらしい。我が書棚でも「黴(かび)の書」となっているが、ひさしぶりに引き抜いてみた。かつての旧制高校生だった叔父から、ずいぶんと昔にもらったものだ。どんな文体だったのか。その一節。「……俺の経験した限りでは酒も畢竟は苦かった。異性も畢竟は人形のやうに見えた。凡ての現実は、閃いて、消えて、虚無に帰する影のやうなものに過ぎなかつた。さうして俺は淋しかつた」。奥付を見ると大正六年の初刷で、昭和十五年には二十七刷となっている。定価は弍円五十銭。岩波書店刊。内容からして女性向きの本ではないので、句の「黴の書」の持ち主は兄弟か、夫か。いずれにしても、もはや誰の手に取られることもない一冊として、書棚の一隅に収められている。本は(そして人もまた)、かくのごとくに老いていくという心持ち。(清水哲男)


July 1571999

 子ら寝しかば妻へのみやげ枇杷を出す

                           篠原 梵

てしまった子供たちが可哀相だと受け取ってはいけない。むしろ、これは厚い(かどうかは別にして、とにかく)親心から発想された句だからである。というのも、昔は夜間に冷たい生ものなどを食すると、抵抗力の弱い子供などは、すぐに腹痛を起こしたりするという「衛生思想」が一般の常識だったからだ。したがって、寝る前に枇杷などとんでもないというわけで、作者は子供らの寝るときを待っていたのである。そういえば、私も母親から、枇杷だったか何だったかは忘れたけれど、子供の私にかくれて風呂場で何かを食べた覚えがあると聞かされたことがある。子供が寝るまでも待てなかったことからすると、アイスクリームの類だったのかもしれない。そんなことなら、気をきかせればよかった(笑)。おいしかっただろうか。一種、禁断の味のような感じはしたにちがいない。高齢化社会になってきて、この逆のケース(むろん子供は成人しているけれど)も、既にどこかで起きているような気がする。お互いに、明日は我が身ということさ。(清水哲男)


July 1471999

 向日葵の非のうちどころ翳りゐて

                           小川双々子

るさを、明るさのままに享受しない。もとより、逆の場合もある。それは詩人の性(さが)というよりも、業(ごう)に近い物の見方であり感じ方だと思う。意地悪なまなざしの持ち主と誤解されるときもあろうが、まったく違うのだ。といって「盛者必滅」などと変に悟っているわけでもなくて、そのまなざしは物事や事象を、常にいわば運動体としてとらえるべく用意されている。現在のありのままの姿のなかに、既にその未来は準備されているという認識のもとで、まなざしは未来を予感すべく、ありのままを見つめようとする。作者の眼前の向日葵のありのままの姿には、実は一点の「非のうちどころ」もないのである。見事な花の盛りなのだ。しかし、花であれ人間であれ盛りの時期は短く、生きとし生ける者はことごとく、いずれは衰亡していくものだ。衰亡の種となるであろう「非のうちどころ」は、いまのところ「翳りゐて」見えないのだが、確実にそこに存在しているではないかという句だ。手垢にまみれた「非のうちどころ」という言葉を逆手に取った手法も、新鮮で魅力的である。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)




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