民放祭ラジオ部門(九州沖縄地区)審査会。あらかじめ大作11本を聞いた。ノビた。




1999ソスN7ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1571999

 子ら寝しかば妻へのみやげ枇杷を出す

                           篠原 梵

てしまった子供たちが可哀相だと受け取ってはいけない。むしろ、これは厚い(かどうかは別にして、とにかく)親心から発想された句だからである。というのも、昔は夜間に冷たい生ものなどを食すると、抵抗力の弱い子供などは、すぐに腹痛を起こしたりするという「衛生思想」が一般の常識だったからだ。したがって、寝る前に枇杷などとんでもないというわけで、作者は子供らの寝るときを待っていたのである。そういえば、私も母親から、枇杷だったか何だったかは忘れたけれど、子供の私にかくれて風呂場で何かを食べた覚えがあると聞かされたことがある。子供が寝るまでも待てなかったことからすると、アイスクリームの類だったのかもしれない。そんなことなら、気をきかせればよかった(笑)。おいしかっただろうか。一種、禁断の味のような感じはしたにちがいない。高齢化社会になってきて、この逆のケース(むろん子供は成人しているけれど)も、既にどこかで起きているような気がする。お互いに、明日は我が身ということさ。(清水哲男)


July 1471999

 向日葵の非のうちどころ翳りゐて

                           小川双々子

るさを、明るさのままに享受しない。もとより、逆の場合もある。それは詩人の性(さが)というよりも、業(ごう)に近い物の見方であり感じ方だと思う。意地悪なまなざしの持ち主と誤解されるときもあろうが、まったく違うのだ。といって「盛者必滅」などと変に悟っているわけでもなくて、そのまなざしは物事や事象を、常にいわば運動体としてとらえるべく用意されている。現在のありのままの姿のなかに、既にその未来は準備されているという認識のもとで、まなざしは未来を予感すべく、ありのままを見つめようとする。作者の眼前の向日葵のありのままの姿には、実は一点の「非のうちどころ」もないのである。見事な花の盛りなのだ。しかし、花であれ人間であれ盛りの時期は短く、生きとし生ける者はことごとく、いずれは衰亡していくものだ。衰亡の種となるであろう「非のうちどころ」は、いまのところ「翳りゐて」見えないのだが、確実にそこに存在しているではないかという句だ。手垢にまみれた「非のうちどころ」という言葉を逆手に取った手法も、新鮮で魅力的である。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


July 1371999

 夏草や兵どもがゆめの跡

                           松尾芭蕉

は「つわもの」。『おくのほそ道』には「奥州高館(源義経の居館だった)にて」との詞書。添えられた「三代の栄燿一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有……」云々は、すこぶるつきの名文だ。名句名文、文句無し。それはそれとして、芭蕉がこの古戦場に立ったのは、栄華を極めた藤原三代が滅亡して五百年後のことである。時間的には、現代と芭蕉の時代のほうがはるかに近い。私がわざわざここに引っ張りだしたのは、句における芭蕉の気持ちの半分以上は、実は自分のことを詠んでいるのではないのかという思いからだ。芭蕉は、武士だった。といっても生家は半分百姓で、藤堂家に仕えてからも、剣術なんかはさして必要はなかったようだ。いわば武士のはしくれでしかなかったわけだが、ひとたび古戦場に立てば、今日の私たちの感慨とは、かなりの差異があったはずである。若くして主君に先立たれた(それも自殺)芭蕉は、日常的な刃傷沙汰も知っていただろうし、五百年前の軍馬剣戟の響きに半ば本能的に反応する感覚は、十分に持ち合わせていたはずだ。血が騒いだはずだ。だから、このときの芭蕉が、「兵」に重ねて自らの喪失した「武士」を思うのは自然と言うべきだろう。このような解釈をする人にお目にかかったことはないが、私の読みはそういうことである。飛躍して、若き日の主君であった藤堂新七郎への秘めたる鎮魂歌と読んでよいとも。(清水哲男)




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