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July 0671999

 金魚玉こっぱみじんにとり落す

                           三ケ山孝子

魚鉢は卓上に置くが、「金魚玉」は軒端などに吊り下げる。金魚にはまことに迷惑な話だけれど、見た目に涼しく、夏という季節の良さを感じさせられる。ただし、私などは見るたびに「アブナいなあ」とは思う。危うき物は美しきかな……。ほら、言わんこっちゃない。作者は、たまたま手を滑らせてとり落してしまった。まさに「こっぱみじん(木端微塵)」だ。思わずも、目をつむったにちがいない。で、誰でもが、読後すぐに思うのは、中に金魚がいたのかどうかということだろう。何も書いてないから、そのことはわからない。わからないが、やはり気になる。金魚がいたのであれば、作者は次の瞬間にどうしたろうか、と。たぶん、まず金魚を救いにかかったはずだけれど、何も書いてないからわからない。「それで、どうしたの」と、作者を知っていれば聞きたくなる。ただ、わかることは作者が金魚玉の予想以上の「こっぱみじん」ぶりに驚くと同時に、どこかで爽快感すらを覚えているようだということくらいか……。書きたかったのは、壊してしまった自責の念と同時に発生した爽快感の両側面だ。それで、いいノダ。俳句自体に「それで、どうしたの」と聞いてみても、一般的にはあまり意味がない。そのサンプルみたいな一句である。(清水哲男)


June 1562000

 京の雨午前に止みぬ金魚鉢

                           川崎展宏

行者の句だ。言葉による絵はがきがあるとすれば、こういうものだろう。旅先ではことさらに鬱陶しく感じられる雨が、ようやく上った京の町でのスケッチ。葭簀(よしず)の掛けてある小さな店に金魚鉢が置かれているのを、ちらりと認めたというところか。雨上がりを喜ぶ心に、いかにも京都らしい風情が好もしく思えている。昨日掲載した高屋窓秋の作句態度とは異なり、川崎展宏のそれは一貫して、いわば風袋(ふうたい)を軽くする態度で書かれてきた。第一句集『葛の葉』の跋に曰く。「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技である。遊びだから息苦しい作品はいけない。難しいことだ。巧拙は才能のいたすところ、もはやどうにもならぬものと観念するようになった」。このとき、作者は四十六歳。あくまでも、俳句が中心。その中心が「遊び」だというのだから、この態度もなかなかに辛いだろう。いつだったか、作者が俳句に目覚めた句として、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」をあげた話を聞いたことがある。作者の「遊び」の意味が、少しはわかったような気がした。『葛の葉』(1971)所収。(清水哲男)


May 0552009

 したたかに濡るる一樹やこどもの日

                           川村五子

日「こどもの日」。子供はいつ見ても濡れているように思う。お日さまの下、やわらかい髪を汗で貼りつけ、駆け回っているイメージがあるからだろうか。それはまるで、太陽を浴びることでスイッチが入り、汗をかくことで一ミリずつぐんぐんと成長しているかのように。掲句の一本の樹は健やかに発育する子供の象徴であり、そこにはそれぞれの未来へと向かうしなやかなまぶしい手足が見えてくる。強か(したたか)とは、人格を表すときには図太いとか狡猾など、長所として使われることはないが、一旦人間を離れ、自然界へ置き換えた途端に、その言葉はおおらかに解き放たれる。掲句の核心でもある「したたかに濡るる」にも、単に雨上がりの樹木を描くにとどまらず、天の恵みの雨に存分に浄められ、つやつやと滴りを光らせている枝葉が堂々と立ち現れる。初夏の鮮やかな木々が、世界を祝福していると感じられる甘美なひとときである。〈空容れてはち切れさうな金魚玉〉〈朝顔の全き円となりにけり〉『素顔』(2009)所収。(土肥あき子)


June 0662009

 妙なとこが映るものかな金魚玉

                           下田實花

余りの上五の口語調が、新橋の芸妓であった實花らしいちゃきちゃきした印象。団扇片手に涼んでいたら、縁先に吊した球形に近い金魚玉に、あらぬ方向の窓の外を通る人影かなにかが動いて見えたのだろう。日常の中で、あら、と思ったその小さな驚きを、さらりと詠むところは、同じ芸妓で句友でもあった武原はん女と相通じている。實花、はん女、それにやはり新橋の芸妓で常磐津の名手であった竹田小時の三人が、終戦直後の名月の夜、アパートの屋上でほろ酔い気分、口三味線に合わせ足袋はだしで舞った、という話をはん女の随筆集で読んだ。その小時にも金魚の句〈口ぐせの口三味線に金魚見る〉がある。知人の金魚が金魚玉いっぱいに大きくなってしまった時、窮屈そうで気の毒と思うのは人間の勝手、あの子はあれで案外幸せなのよ、と言っていた。見るともなく金魚を見ている二人の芸妓。何が幸せ不幸せ、ときに自分を重ねてみたりすることもあっただろうか。『實花句帖』(1955)所収。(今井肖子)


July 0372011

 金魚玉金魚をふつと消す角度

                           辻田克巳

魚玉というのは金魚鉢のことです。ガラスの球形なのだから玉といったのでしょうが、球形は球形でも、上の方は開いていて、フリルのような形にガラスが波打っています。たいていはその波に、赤や青の線が描かれていて、子どもの頃には飽きずに中を覗き込んでいました。どうしてあんなに時間があったのだろうと、不思議になるほどに、ボーっとして金魚を見つめていました。それで何かを学んだかというと、そんなことはなく、ただ意味もなく暇をつぶしていただけなのです。おとなになって、会社勤めを始めてしまってからは、目的もなく何かをじっと見つめている時間なんて、なくなりました。ただただあわただしく、追われるように一日を過ごしています。ふっと消えてしまった大切なものは、あの頃見つめていた金魚玉の中の金魚と、あと何だったかと、考えてしまいます。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)


May 2952012

 かかへくるカヌーの丈とすれちがふ

                           藤本美和子

ヌーが季語として認知されているかは別として、ヨットやボートと同じく夏季、ことに緑したたる初夏がふさわしい。万緑を映した川面を滑るように進む姿には、なんともいえない清涼感がある。人間ひとりを収め、水上にすっきりと浮いているカヌーも、陸にあがれば意外に大きいものだ。カヤック専門店のオンラインストアで確認すると、軽くてコンパクトと書かれる一人乗りカヌーの全長が432センチとあり、たしかに思っていたよりずっと長い。水辺まで運ばれる色鮮やかなカヌーに気づいてから、長々と隣り合い、その全長をあらためて知る作者は、水上の軽やかな姿とは異なる、思いがけない一面を見てしまったような困惑もわずかに感じられる。水の生きものたちが、おしなべて重量を気にせず大きくなったものが多いことなどにも思いは及んでいくのだった。〈新しき色の加はる金魚玉〉〈たそがれをもて余しをる燕の子〉『藤本美和子句集』(2012)所収。(土肥あき子)


August 0982013

 金魚玉とり落しなば鋪道の花

                           波多野爽波

魚玉は、玉状に造られたガラス器に金魚を入れ、軒先などに吊して涼を楽しむもの。この句、金魚玉を実際に落としたわけではない。「とり落し」+「な」+「ば」であって、「な」は完了の助動詞の未然形。「もし、落としてしまったら」という順接の仮定条件である。光景としては、金魚玉を提げて、鋪道を歩いているのだろうか。その時、ふと、淡い強迫観念のような心情が過ぎったのである。もし、この金魚玉を落としてしまったら、割れてしまい、金魚は、鋪道の花のようになるであろうと。作者の美意識と繊細な感受性が表れた作品である。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)




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