景気下げ止まりと日銀短観。数字の上での話だろ。酒の上での話のほうが信用できる。




1999ソスN7ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0671999

 金魚玉こっぱみじんにとり落す

                           三ケ山孝子

魚鉢は卓上に置くが、「金魚玉」は軒端などに吊り下げる。金魚にはまことに迷惑な話だけれど、見た目に涼しく、夏という季節の良さを感じさせられる。ただし、私などは見るたびに「アブナいなあ」とは思う。危うき物は美しきかな……。ほら、言わんこっちゃない。作者は、たまたま手を滑らせてとり落してしまった。まさに「こっぱみじん(木端微塵)」だ。思わずも、目をつむったにちがいない。で、誰でもが、読後すぐに思うのは、中に金魚がいたのかどうかということだろう。何も書いてないから、そのことはわからない。わからないが、やはり気になる。金魚がいたのであれば、作者は次の瞬間にどうしたろうか、と。たぶん、まず金魚を救いにかかったはずだけれど、何も書いてないからわからない。「それで、どうしたの」と、作者を知っていれば聞きたくなる。ただ、わかることは作者が金魚玉の予想以上の「こっぱみじん」ぶりに驚くと同時に、どこかで爽快感すらを覚えているようだということくらいか……。書きたかったのは、壊してしまった自責の念と同時に発生した爽快感の両側面だ。それで、いいノダ。俳句自体に「それで、どうしたの」と聞いてみても、一般的にはあまり意味がない。そのサンプルみたいな一句である。(清水哲男)


July 0571999

 花南瓜素顔にあればなつかしき

                           小山 遥

生時代、同級生の女性から「着ている服の色に、その日の気分が左右される」と聞かされて、いたく感心したことがあった。なにせ当方は、小学生以降どこに行くにも黒い学生服を着ていたので、迂闊にもそういうことには気がつかなかったのである。お恥ずかしくも馬鹿な話だ。女性の場合は、この服のとっかえひっかえに加えて化粧ということがあるから、物の見え方も男とはずいぶん違っているのだろう。化粧のおかげで見える物もあれば、逆によく見えない物もあるのだろう。この句には、そういうことが詠まれている。たまたまの素顔のままの外出で、作者は南瓜の花を見かけた。普段のように化粧をしていたら、きっと気にもかけないで通り過ぎてしまっただろう黄色い花に気を引かれている。このときの作者は、いつだって素顔だった少女時代の気分に戻ったのだ。したがって、しみじみとした「なつかしさ」の気分にひたれたというのである。化粧、恐るべし。……とまで作者は書いてはいないけれど、学生時代と同様に、私はいたく感心している。『ひばり東風』(1998)所収。(清水哲男)


July 0471999

 わたくしに劣るものなく梅雨きのこ

                           池田澄子

初は、作者の純粋な自嘲の句かと思った。でも、誰にもかえりみられない陰湿な梅雨時の茸(きのこ)の独白と読んだほうが面白い。つまり、茸がつぶやいているのだ。もちろん、そこには作者自身の自嘲が投影されているわけだけれど、不思議に暗くないところが不思議(笑)な作品だ。なぜだろうと、ほとんど一日中考えてしまった。で、結論は「わたくし」という主語にあると落ち着いた。「私」でもなく「あたし」でもなく、「わたくし」とは自らを四角四面に尊重するニュアンスを含んだ言葉だから、正直に「劣るものなく」と自己卑下をしていても、主語のまっとうさが発語者の印象を救うのである。映画の寅さんが「わたくし、生まれも育ちも柴又です」とやる、アレに共通する感覚だと思う。句での茸は寅さんの仲間なのだと思うと、とても楽しい。梅雨茸を、こんなふうに不思議な雰囲気に仕立て上げた作者に拍手をおくりたい。ああ、この句をぜひとも「梅雨きのこ」に読ませてやりたいものだ。何と言うだろうか。やはり「わたくし……」と、慇懃(いんぎん)に切り出してくるのでしょうね。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)




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