昨夜は吉祥寺で友人とビール。ボーナスも出たというのに客はまばら。「花金」衰亡。




1999ソスN7ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0371999

 一と股ぎほどの野川の芹の花

                           田村いづみ

(せり)というと春の季語だが、花は夏。水辺で、白くこまかい花を咲かせる。立ち止って観賞するほどの派手さもないけれど、歩きながら目の端にとらえて、束の間すずやかな印象を受ける花だ。句の情景は、まさに我が故郷山陰の野川のそれだと思った。学校の行き帰りに必ず渡る細い川があって、大人ならば「一と股ぎ」のところを、子供のために割り木が二本渡してあった。まるで、文部省唱歌「春の小川」のモデルのような川だった。毎夏、その水辺にひっそりと芹の花があった。芹摘みの記憶は、あまりない。川にはもっとお腹のふくれる「ていらぎ」(方言だと思います。正式な名をご存じの方、教えてください)が群生しており、腹の足しにもならない芹などには、さして関心がなかったせいだろう。したがって、放置されたままの芹は、この季節になるといっせいに花をつけた。子供心にも、ぼんやりと寂しい花のように写っていた。花の記憶は、場所に結び付く。だから、あまりにも違う場所で咲いている花を見ると、なんだか偽物のように感じられるほどだ。その意味からも、この句は私のなかの芹の花にぴしゃりとフィットしてくれた。(清水哲男)


July 0271999

 緑蔭や人の時計をのぞき去る

                           高浜虚子

園のよく茂った緑の樹々。その蔭のベンチで憩う作者の手元に、いきなりぬうっと顔を近づけて去っていった男がいる。瞬間、作者は男が腕時計をのぞきこんだのだな、と知る。無遠慮な奴めと不愉快な気持ちもなくはないが、一方ではなんとなく男の気持ちもわかるような気がして憎めない。緑蔭にしばしの涼を求めていた彼は、きっと時間にしばられた約束事でもあったのだろう。シーンは違え、誰にでも覚えのありそうな出来事だが、見過ごさず俳句に仕立ててしまった虚子は、やはり凄い。「全身俳人」とでも言うべきか。安住敦に「緑蔭にして乞はれたる煙草の火」があり、これまた「いかにも」とうなずけるけれど、いささか付き過ぎで面白みは薄い。最近は時計もライターも普及しているので、このような場面に遭遇することも少なくなった。公園などで時間を聞いてくるのは、たいていが小学生だ。塾に行く時間を気にしながら遊んでいるのだろう。いまどきの子供はみんな、とても忙しいのである。(清水哲男)


July 0171999

 薔薇を転がる露一滴の告白なり

                           原子公平

白の中身は問わないにしても、一点の曇りも虚飾もない告白。人に、そういうことが可能だろうか。可能だとすれば、それはこのように小さくて瑞々しく清らかだろう。かくの如き告白ありき、というのではなく、作者はあらまほしき告白の姿をかくの如く詠んだのだろう。ただし、この読み方は作者の意図を半分しかとらえていないと思われる。何故か。モチーフは薔薇の花を転がる露だから、作者は花に近く顔を寄せている。束の間、露一滴の美しさに陶然とした。それが告白という人の秘密の吐露に結びついたわけだが、この事情をよく考えてみると、作品の示すベクトルは、実は「告白」に向かってはいないことがわかってくる。あえて言えば、句の「告白」は薔薇の露一滴の甘美な美しさを演出するための小道具なのであって、句全体は「告白」に反射する光を結局は薔薇の露一滴に集めているのだ。すなわち、巡り巡っての薔薇賛歌と読むのが妥当だろう。俳句様式ならではの仕掛けの妙を、私としては以上のように感じたのだが、どんなものだろうか。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)




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