三周年。そろそろ読者の方々の全体像を知りたくなりました。アンケート、よろしく。




1999ソスN7ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0171999

 薔薇を転がる露一滴の告白なり

                           原子公平

白の中身は問わないにしても、一点の曇りも虚飾もない告白。人に、そういうことが可能だろうか。可能だとすれば、それはこのように小さくて瑞々しく清らかだろう。かくの如き告白ありき、というのではなく、作者はあらまほしき告白の姿をかくの如く詠んだのだろう。ただし、この読み方は作者の意図を半分しかとらえていないと思われる。何故か。モチーフは薔薇の花を転がる露だから、作者は花に近く顔を寄せている。束の間、露一滴の美しさに陶然とした。それが告白という人の秘密の吐露に結びついたわけだが、この事情をよく考えてみると、作品の示すベクトルは、実は「告白」に向かってはいないことがわかってくる。あえて言えば、句の「告白」は薔薇の露一滴の甘美な美しさを演出するための小道具なのであって、句全体は「告白」に反射する光を結局は薔薇の露一滴に集めているのだ。すなわち、巡り巡っての薔薇賛歌と読むのが妥当だろう。俳句様式ならではの仕掛けの妙を、私としては以上のように感じたのだが、どんなものだろうか。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


June 3061999

 還暦を過ぎし勤めや茄子汁

                           前川富士子

者本人が、還暦を過ぎているわけではないだろう。そんな気がする。自分を詠んだとすると、素材が付き過ぎていて面白くない。夫か、父親か。作者は、今日も、その人のための朝餉を用意している。この季節になると、いつも当たり前のように茄子汁(なすびじる)を出してきた。出された人は黙々と食べ、いつもの時刻に今朝もまた出勤していく。何十年も変わらぬ夏場の茄子汁であり朝の情景であるが、黙々と食べて出勤していく人は、いつしか還暦を過ぎてしまった。変わらない食卓と、変わらないようでいて変わっていく人のありよう……。そこにさりげない視点を当てた、鋭い句だ。還暦を過ぎた私の日常も、半分は勤め人みたいなものだから、句を読んでドキリとさせられるものがあった。若いつもりではいても、このように見ている人にかかっては、当方の内心など何も関係はないのだ。だから「ご苦労さま」でもないし「そろそろ退職を考えては……」でもない、実にクールなところを評価したい。ここでベタベタしてしまっては、いつもと変わらぬせっかくの「茄子汁」の味が落ちてしまう。(清水哲男)


June 2961999

 見て覺え見て覺え今日沙羅の花

                           後藤夜半

羅(さら)の花は椿のそれに似ていることから、別名を「夏椿」とも言う。「沙羅双樹」は別種。花の名前を覚えるのは、なかなか大変だ。結局は、作者のように何度も見て記憶するしか方法がないわけだが、なにせ季節物なので、次の年に開花したときには忘れていたりする。その反面、めったに咲かない「月下美人」などの珍花(?!)は、一度見ると、もう忘れない。しかし、なかには何故か自分だけに覚えにくい花の種類もあるようで、一所懸命に何度も覚えるのだが、いつの間にか記憶が失せてしまうのだ。作者にとっての沙羅は、そういう花だったのかもしれない。句の「今日」を、今日こそは覚えるぞという「今日」ととらえると、作者の気合いが伝わってきて好もしい。若い女性的に言うと「カッワイイー」というニュアンスもある。句作当時の夜半の年齢は、八十歳くらいか。そのことを思うと、おのずからまた別の感慨もわいてくる。比べれば、私などはまだ小僧の年齢だ。負けてはいられない。よく見て、ちゃんと見て、しっかりと覚えよう。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




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