フィルム・ノワールさながらの脱獄(フランス)。警察国家だから、反発力も過激だ。




1999ソスN6ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2961999

 見て覺え見て覺え今日沙羅の花

                           後藤夜半

羅(さら)の花は椿のそれに似ていることから、別名を「夏椿」とも言う。「沙羅双樹」は別種。花の名前を覚えるのは、なかなか大変だ。結局は、作者のように何度も見て記憶するしか方法がないわけだが、なにせ季節物なので、次の年に開花したときには忘れていたりする。その反面、めったに咲かない「月下美人」などの珍花(?!)は、一度見ると、もう忘れない。しかし、なかには何故か自分だけに覚えにくい花の種類もあるようで、一所懸命に何度も覚えるのだが、いつの間にか記憶が失せてしまうのだ。作者にとっての沙羅は、そういう花だったのかもしれない。句の「今日」を、今日こそは覚えるぞという「今日」ととらえると、作者の気合いが伝わってきて好もしい。若い女性的に言うと「カッワイイー」というニュアンスもある。句作当時の夜半の年齢は、八十歳くらいか。そのことを思うと、おのずからまた別の感慨もわいてくる。比べれば、私などはまだ小僧の年齢だ。負けてはいられない。よく見て、ちゃんと見て、しっかりと覚えよう。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


June 2861999

 葛餅や小浜置き屋の箱はしご

                           平野紀美子

を味わうには、いささかの知識が必要だ。なぜ「小浜」という地名が必要なのか。角川版歳時記が載せている句だけれど、解説を読んでもさっぱりわからない。亀戸天神や川崎大師の葛餅(くずもち)が有名と書いておきながら、いきなりの例句が「小浜」では困るのである。菓子類にうとい私などには、チンプンカンプンだ。ただ、句の姿が美しく思えて、意味もわからずに覚えてはいた。で、最近の新聞(「産経」1999年6月22日付夕刊)の特集を見て、疑問は氷解。福井県の「小浜」が「葛まんじゅう」の名産地として紹介されていたからだ。亀戸天神などの葛餅とは違って、葛饅頭には餡が入っている。それを作者は別種である「葛餅」と表現したのである。単なる錯覚か、故意の言い換えかは知らない。いずれにせよ、角川の歳時記には「葛饅頭」の項目もあるのだから、引用するのなら、そのことを断っておくべきだった(と、人の過ちを言えた義理でもないけれど)。昔ながらの芸妓の「置き屋」の雰囲気を、葛餅と「箱はしご」(下側部を戸棚や引き出しなどに利用した階段)を配して、絵葉書的ながらも上手に表現した句と言えよう。道具立ての妙だ。(清水哲男)


June 2761999

 瓜の種噛みあてたりし世の暗さ

                           成田千空

は瓜といえば「胡瓜(キュウリ)」をさしたそうだが、今では瓜類の総称とする。「トウナス」も「ヘチマ」も瓜である。作者は現代の人だから、この場合は「マクワウリ」だろう。種をちゃんとよけて食べたつもりが、噛みあててしまった。その不愉快な気持ちが、「そう言えば」と世の中の暗さに行きあたっている。最近はロクなことがない、イヤな世の中だと独白したのかもしれない。ところで、作者の言う「世」とは、何をどのようにさしているのだろうか。普通に読んで「世の中」や「世間」、あるいは「社会」と受け取れるのだが、それはそれとして「世」ほどに厄介な概念も少ないなと、いつも思う。例えば私が「世」と言うときに、私の指示する「世」と相手が受けとめる「世」の概念とは、必ずしも符合するとは限らないからだ。「世」のひろがりを自然に世界情勢に結びつける人もいれば、ひどく狭い範囲でとらえる人もいる。お互いに「暗いね」とうなずきあっても、本当はうなずきあったことにはならない。滑稽ではあるが、こういうことは「世の中」でしょっちゅう起きている。ま、「世の中」とはそうしたものかも……。(清水哲男)




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