返されては困る。死ぬ(倒産)まで金利を取ると中小企業に金を貸す業者。東京新聞。




1999ソスN6ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2361999

 梅雨晴や野球知らねばラヂオ消す

                           及川 貞

だドーム球場がなかったころ、梅雨時の野球ファンは大変だった。観に行く予定のある場合はもちろんだが、試合が予定されている各地の天候が気になって、それこそラジオの天気予報に一喜一憂したものである。予報で雨と告げられても、往時の天気予報は当たらないことが多かったので、試合をやっているのではないかと、その時間には念のためにラジオのスイッチを入れるのが常だった。句の作者は、まったく逆の立場である。番組表では野球中継が予定されており、梅雨の晴れ間でもあるけれど、ひょっとしたら野球は中止されていて、いつもの好きな番組が放送されているのではないかとラジオをつけてみた。でも、やっぱり野球をやっている。あちこちダイヤルを回してみても、どこもみな野球放送ばかりだ。がっかりして、消してしまった……。あるいは、それほどでもなくて、なんとなくラジオを聞きたくなっただけなのかもしれないが、いずれにしても、梅雨晴をめぐっての小さなドラマがここにある。ベテランのスポーツ記者のなかには、けっこう梅雨好きという人がいたりする。雨になると、昔は必ず仕事が休みになったからだ。(清水哲男)


June 2261999

 高窓や紅粛々と夏至の暁け

                           赤城さかえ

至は、北半球で昼間が最も長い日。昔、その理屈も教室で習った。太陽が夏至点に達し、天球上最も北に片寄るので云々と。当ページを書いていて思うことの一つに、学校ではずいぶんと色々なことを、過剰なほどに習ったということがある。ただし、習った記憶だけはあるのだが、習った中身をずいぶんと忘れてしまっているのが、とても残念だ。夏至の理屈も、私にはその一つ。夏至がめぐってくるたびに、理屈を本で調べ直す始末である。大枝先生、ごめんなさい。でも、調べる年はまだよいほうで、たいていの年には「夏至」なんぞ忘れている。ラジオの仕事に関わっているので、局に行ってからはじめて「夏至」と知ることも多い。そこへいくと、さすがに俳人の季節に対する意識は強烈だ。句のように、夜が暁け(あけ)てくるときには、既に「夏至」を意識しているのだから……。皮肉ではなくて、できれば私も、これからは「粛々と」(これも皮肉ではない)この作者のようにありたいと願う。暦の上で、「夏至」は夏の真ん中だ。せっかく生まれてきたのだから、ジャイアンツの誰かさんのように、ど真ん中の直球をぼおっと見送って三振したくはない。(清水哲男)


June 2161999

 青山椒雨には少し酒ほしき

                           星野麥丘人

れようが降ろうが、年中酒を欲する人の句ではないだろう。私は年中欲するが、ビールに限るのであって、日本酒は一年に一度飲むかどうかくらい(それも義理で)のところだ。友人に不思議がられるが、相手が日本酒になると下戸同然ということである。同様に、焼酎もウィスキーも飲まない。いや、飲めない。そんな私だが、この句を読んだ途端に日本酒を飲みたくなった。作者と同様に、少しだけだけれど……。雨の庭の青山椒(あおさんしょう)は美しい。が、この句は夕餉の食卓に、青山椒の佃煮か何かが出された故の発想ではなかろうか。晩酌の習慣のない作者が、思わずも日本酒を飲みたくなったのは、たぶん急な梅雨寒のなかで、少し身体を温めたいと思っていたからに違いない。そこに、青山椒の佃煮か何かが出てきた。夜の表は、なお降り続いている雨である。作者の連想は、昼間の雨の庭の美しい青山椒の姿へと自然につながっていく。そこで文字通り情緒的に、一杯ほしくなったというところだろう。うっとおしい梅雨時の情緒は、かくありたいものだ。ぽっと、心の暖まる一句。(清水哲男)




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