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June 2261999

 高窓や紅粛々と夏至の暁け

                           赤城さかえ

至は、北半球で昼間が最も長い日。昔、その理屈も教室で習った。太陽が夏至点に達し、天球上最も北に片寄るので云々と。当ページを書いていて思うことの一つに、学校ではずいぶんと色々なことを、過剰なほどに習ったということがある。ただし、習った記憶だけはあるのだが、習った中身をずいぶんと忘れてしまっているのが、とても残念だ。夏至の理屈も、私にはその一つ。夏至がめぐってくるたびに、理屈を本で調べ直す始末である。大枝先生、ごめんなさい。でも、調べる年はまだよいほうで、たいていの年には「夏至」なんぞ忘れている。ラジオの仕事に関わっているので、局に行ってからはじめて「夏至」と知ることも多い。そこへいくと、さすがに俳人の季節に対する意識は強烈だ。句のように、夜が暁け(あけ)てくるときには、既に「夏至」を意識しているのだから……。皮肉ではなくて、できれば私も、これからは「粛々と」(これも皮肉ではない)この作者のようにありたいと願う。暦の上で、「夏至」は夏の真ん中だ。せっかく生まれてきたのだから、ジャイアンツの誰かさんのように、ど真ん中の直球をぼおっと見送って三振したくはない。(清水哲男)


June 2162001

 夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり

                           高浜虚子

日は「夏至」。北半球では、日中が最も長く夜が最も短い。北極では、典型的な白夜となる。ちなみに、本日の東京の日の出時刻は04時25分(日の入りは19時00分)だ。ただ「夏至」といっても、「冬至」のように柚子湯をたてるなどの行事や風習も行われないので、一般的には昨日に変わらぬ今日でしかない。あらかじめ情報を得て待ちかまえていないと、何の感興も覚えることなく過ぎてしまう。暦の上では夏の真ん真ん中の日にあたるが、日本では梅雨の真ん中でもあるので、完璧に夏に至ったという印象も持ちえない。その意味では、はなはだ実感に乏しい季語である。イメージが希薄だから、探してもなかなか良い句には出会えなかった。たいがいの句が、たとえば「夏至の夜の港に白き船数ふ」(岡田日郎)のように、正面から「夏至」を詠むのではなく、季語の希薄なイメージを補強したり捏ね上げるようにして詠まれている。だから、どこかで拵え物めいてくる。すなわち掲句のように、むしろ「夏至」については何も言っていないに等しい句のほうが好もしく思えてしまう。多くの人の「実感」は、こちらに賛成するだろう。『合本俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


June 2162007

 地下鉄にかすかな峠ありて夏至

                           正木ゆう子

えば地下鉄ほど外界から切り離された場所はないだろう。地下鉄からは光る雲も、風に揺らぐ緑の木々も見えない。真っ暗な軌道を轟音とともに走る車両の中では外の景色を見て電車の上り下りを感じることはできない。地下鉄にも高低差はあるだろうが、電車の揺れに生じる微妙な変化を身体で感じるしかないのだ。その起伏を表すのに人工的な地下鉄からは最も遠い「峠」という言葉にゆきあたったとき、作者は「ああ、そういえば今日は夏至」と改めて思ったのかもしれない。昼が最も長く夜が最も短いこの日をピークに昼の長さは短くなってゆく。しかし「夏至」という言葉にその頂点を感じても太陽のあり方に目に見える変化が起こるわけではない。「かすかな峠ありて夏至」と少し間延びした言葉の連なりにその微妙な変化を媒介にした地下鉄の起伏と太陽の運行との結びつきが感じられる。都会生活の中では、自然の変化を肌で感じられる場所はどんどん失われている。だが、味気ない現実に閉じ込められるのではなく作者は自分の身体をアンテナにして鉄とコンクリートの外側にある季節の変化を敏感に受信している。「かすかな」変化に敏感な作者の感受性を介して都会の暗闇を走る地下鉄は明るく眩しい太陽の運行と結びつき、それまでとは違う表情を見せ始めるのだ。『静かな水』(2002)所収。(三宅やよい)


June 2162011

 夏至の日の水平線のかなたかな

                           陽美保子

日は夏至。北半球では一年で一番日の長い日である。日本ではたまたま梅雨のさなかに訪れるので実感は乏しいが、北欧では夏至(ミッドサマー)はクリスマスと同じくらい大切にされている。夏至祭のシンボル「メイポール」は白樺の葉とさまざまな花で覆われ、美しい民族衣装に身を包んだ男女がポールの周りを輪になって歌い踊る。最近知った「FIKA(フィーカ)」なる言葉は、スウェーデン語でティーブレイクを意味する。スウェーデンに本社を持つ企業では、夏至のためのFIKAが取られるという。遠く離れた異国の文化に胸を打たれるのは、太陽を寿ぐという生きものとしての源に深く共感するからだろう。沈まない太陽が地平線を流れるように移動する北欧の夏至の日を思えば、掲句の水平線がまだ見ぬ国を思わせる。そして、太陽は今日も地球のすみずみまであまねく光りを行き渡らせる。〈まつすぐに足の伸びたる裸かな〉〈かたつむり殻を覗けばをりにけり〉『遥かなる水』(2011)所収。(土肥あき子)


June 2362012

 灯台に白き穂を立て夏至の濤

                           板谷蝸牛

京では五時間近く昼の方が長いという夏至、今年は一昨日の木曜日だった。しかし、今年のように時ならぬ台風に驚かされることがなくても梅雨最中、歳時記にも、夏至の雨、などの句が並んでいる。掲出句、遠くから見える白い灯台と白い波頭、さらに雲の白さが、梅雨の晴れ間の海の碧に際立って眩しい。ただ、濤、の一字が、一見ちらちらと寄せているように見える波が実際は、それこそ台風が来そうな激しい波であることを思わせる。夏至という、上りつめればあとは下るだけ、という一点の持つさびしさが、波の勢いが強ければ強いほど、大きく砕ければ砕けるほど、感じられるのだろう。『図説 大歳時記・夏』(2007)(角川学芸出版)所載。(今井肖子)


June 2162014

 夏至の日に嫁ぐわが影寸詰まる

                           唐崎みどり

わゆるジューンブライドである作者。ヨーロッパでは雨が少なくいい季節である六月も日本では梅雨時、それをジューンブライドなどとは結婚式場の企業戦略にのせられているという向きもあるが、女神ジュノーに由来するとも言われどこかロマンティックだ。そして幸いこの句の作者は五月晴に恵まれ、今日の良き日を迎えている。寸詰まり、とは言うが、寸詰まる、という動詞は見当たらないのだが、ふと足元を見下ろした時の、嫁いでゆくという感慨とはかけ離れた感のある花嫁のつぶやきは、おかしみと同時に照れくささやもの悲しさの入り混じった得も言われぬ複雑な心情を言い留めている。『草田男季寄せ』(1985)所載。(今井肖子)


June 2362015

 夏至の日を機械の手入れして終わる

                           恒藤滋生

日は夏至。太陽が夏至点を通過し、北半球では一年で昼がもっとも長く、夜がもっとも短くなる。冬至と比べると、昼間の時間差は4時間以上にもなる。太陽を生活の中心とした生活からずいぶんと離れてしまった現代でも、同じ午後5時でもまだこんなに明るいというように、時間を基本としつつ日の長さを実感する。掲句は正確が取り柄の機械と、一年のなかで伸び縮みする太陽の動きとの取り合わせがユニーク。しかも、終日機械の手入れに関わっていたことで、人間はもう太陽とともに生きる生活には戻れないことも示唆しているようにも思われる。そこには、自然が遠く離れてしまったようなさみしさや切なさも漂うのだ。『水分』(2014)所収。(土肥あき子)




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