ブルー・マンデイとも思わないが、全社会人がいっせいに仕事にかかるシステムは怪。




1999ソスN6ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2161999

 青山椒雨には少し酒ほしき

                           星野麥丘人

れようが降ろうが、年中酒を欲する人の句ではないだろう。私は年中欲するが、ビールに限るのであって、日本酒は一年に一度飲むかどうかくらい(それも義理で)のところだ。友人に不思議がられるが、相手が日本酒になると下戸同然ということである。同様に、焼酎もウィスキーも飲まない。いや、飲めない。そんな私だが、この句を読んだ途端に日本酒を飲みたくなった。作者と同様に、少しだけだけれど……。雨の庭の青山椒(あおさんしょう)は美しい。が、この句は夕餉の食卓に、青山椒の佃煮か何かが出された故の発想ではなかろうか。晩酌の習慣のない作者が、思わずも日本酒を飲みたくなったのは、たぶん急な梅雨寒のなかで、少し身体を温めたいと思っていたからに違いない。そこに、青山椒の佃煮か何かが出てきた。夜の表は、なお降り続いている雨である。作者の連想は、昼間の雨の庭の美しい青山椒の姿へと自然につながっていく。そこで文字通り情緒的に、一杯ほしくなったというところだろう。うっとおしい梅雨時の情緒は、かくありたいものだ。ぽっと、心の暖まる一句。(清水哲男)


June 2061999

 ラムネ玉河へ気づかぬほどの雨

                           北野平八

光地でか、それとも吟行先でか。いずれにしても、大の大人がラムネの壜を手にするのは、日常的な時間のなかでではないだろう。どんよりと曇った蒸し暑い昼下がり。休憩所か食事処かで、ちょっとした茶目っ気に懐しさも手伝って、作者はひさしぶりに飲んでみた。子供の頃の、遠い日の味がよみがえってくる。眼前を悠々と流れる河面を、ラムネ玉を鳴らしながら見るともなしに見ているうちに、ふと細かい雨が降りだしたのに気がついた。よく目をこらさないと「気づかぬほどの雨」である。事実、同行者の誰もがまだ気づいていないようだ。みな、賑やかに笑い合ったりしている。べつに細かい雨などどうということもないのだが、このように人はふと、ひとり意識が交流の場からずれることがある。その淡くはかない哀歓の訪れた束の間の時間を、作者はのがさなかった。北野平八得意の芸である。「ラムネ」という名称の由来は、レモネードからの転訛(てんか)説が有力だ。最近はプラスチック製の瓶が出回っているようだが、あれはやはりガラス壜でないと感じが出ない。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


June 1961999

 川ばかり闇はながれて蛍かな

                           加賀千代女

代女は、元禄から安永へと18世紀の七十三年間を生きた俳人。加賀国松任(現・石川県石川郡松任町)の生まれだったので、通称を「加賀千代女」という。美人の誉れ高く、何人もの男がそのことを書き残している。若年時の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」の心優しさで世に知られ、しきりに喧伝もされた。二百余年後に生まれた私までもが、ついでに学校で教えられた。さて、句の川は何処の川かは知らねども、往時の普通の川端などは真の闇に包まれていたであろう。川面で乱舞する蛍の明滅が水の面をわずかに照らし、かすかなせせらぎの音もして、そのあたりは「川ばかり」という具合だ。このときに、しかし川の流れは、周辺の闇と同一の闇がそこだけ不思議に流れているとも思えてくる。闇のなかを流れる闇。現代詩人がこう書いたとすれば、それは想像上のイメージでしかないのだけれど、千代女の場合はまったき実感である。その実感を、このように表現しえた才能が凄い。繰り返し舌頭に転がしているだけで、句は私たちの心を江戸時代の闇の川辺に誘ってくれるかのようである。寂しくも豊饒な江戸期の真の闇が、現代人の複雑ながらも痩せ細った心の闇の内に、すうっと流れ込んでくるようである。『千代尼句集』所収。(清水哲男)




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