桜桃忌。命名は今官一。三鷹禅林寺での集いの派手さを疎ましく思っておられたとか。




1999ソスN6ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1961999

 川ばかり闇はながれて蛍かな

                           加賀千代女

代女は、元禄から安永へと18世紀の七十三年間を生きた俳人。加賀国松任(現・石川県石川郡松任町)の生まれだったので、通称を「加賀千代女」という。美人の誉れ高く、何人もの男がそのことを書き残している。若年時の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」の心優しさで世に知られ、しきりに喧伝もされた。二百余年後に生まれた私までもが、ついでに学校で教えられた。さて、句の川は何処の川かは知らねども、往時の普通の川端などは真の闇に包まれていたであろう。川面で乱舞する蛍の明滅が水の面をわずかに照らし、かすかなせせらぎの音もして、そのあたりは「川ばかり」という具合だ。このときに、しかし川の流れは、周辺の闇と同一の闇がそこだけ不思議に流れているとも思えてくる。闇のなかを流れる闇。現代詩人がこう書いたとすれば、それは想像上のイメージでしかないのだけれど、千代女の場合はまったき実感である。その実感を、このように表現しえた才能が凄い。繰り返し舌頭に転がしているだけで、句は私たちの心を江戸時代の闇の川辺に誘ってくれるかのようである。寂しくも豊饒な江戸期の真の闇が、現代人の複雑ながらも痩せ細った心の闇の内に、すうっと流れ込んでくるようである。『千代尼句集』所収。(清水哲男)


June 1861999

 鮎は影と走りて若きことやめず

                           鎌倉佐弓

京地方での鮎釣りの解禁日は秋川流域が先週の日曜日、多摩川も間もなくだ。好きな人は解禁日を待ち兼ねて、夜も眠れないほどに興奮するというから凄い。子供の遠足前夜以上。私は素早い動きの魚は苦手なので、一度も鮎を目掛けて釣ったことはない。どろーんとした鮒釣りが、子供の頃から性にあっていた。それはともかく、掲句は鮎の動きをとてもよくとらえていて素敵だ。たしかに「影」と一緒に走っている。しかも単なる写生にとどまらず、「若きことやめず」と素早く追い討ちをかけたところが見事。若さは、影にも現われる。人間でも、化粧もできない影にこそ現われる。しかも、鮎は「年魚」とも言われるように、その一生は短い。だからこそ、今の若さが鮮やかなのだ。句には、佐藤紘彰の英訳がある。俳誌「吟遊」(代表・夏石番矢)の第二号に載っている。すなわち"A sweetfish runs with its shadow ever to be young"と。以下、私見。……間違いではないんですけどねエ、なんだかちょっと違うんですよねエ。第一に、鮎が露骨に単数なのが困る。"sweetfish"が"carp"のように単複同一表記なのは承知しているが、ここはやっぱり"Sweetfish"と出て、一瞬単複いずれかと読者を迷わせたほうがベターなのではないかしらん。『潤』(1984)所収。(清水哲男)


June 1761999

 何となくみな見て通る落ち実梅

                           甲斐すず江

ばたに、いくつかの青い梅の実が落ちている。なかには人に踏まれたのか、形が崩れてしまっているものも……。それだけの情景であるが、通りかかる人はみな「何となく」見て過ぎてゆく。惜しいことにだとか、ましてや無惨なことにだとかの感情や思いもなく、ただ「何となく」見ては通り過ぎてゆくのである。三歩も行けば、誰もがみな、そんな情景は忘れてしまうだろう。こういうことはまた、他の場面でも日常茶飯的に起きているだろう。「何となく」いろいろな事物を見て過ぎて、そしてすぐに忘れて、人は一生を消費していくのだ。句は読者に、そういうことまでをも思わせる。「何となく」という言葉自体は曖昧な概念を指示しているが、作者がその曖昧性を極めて正確に使ったことで、かくのごとくに句は生気を得た。「何となく」という言葉を、作者はそれこそ「何となく」使っているのではない。情景は、その時間的な流れも含めて、これ以上ないという精密さでとらえられている。地味な句だが、私にはとても味わい深く、面白かった。『天衣(てんね)』(1999)所収。(清水哲男)




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