ペットボトルを持ち歩く若者たち。構わないけど、何故そんなに咽喉が渇くのだろう。




1999ソスN6ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1761999

 何となくみな見て通る落ち実梅

                           甲斐すず江

ばたに、いくつかの青い梅の実が落ちている。なかには人に踏まれたのか、形が崩れてしまっているものも……。それだけの情景であるが、通りかかる人はみな「何となく」見て過ぎてゆく。惜しいことにだとか、ましてや無惨なことにだとかの感情や思いもなく、ただ「何となく」見ては通り過ぎてゆくのである。三歩も行けば、誰もがみな、そんな情景は忘れてしまうだろう。こういうことはまた、他の場面でも日常茶飯的に起きているだろう。「何となく」いろいろな事物を見て過ぎて、そしてすぐに忘れて、人は一生を消費していくのだ。句は読者に、そういうことまでをも思わせる。「何となく」という言葉自体は曖昧な概念を指示しているが、作者がその曖昧性を極めて正確に使ったことで、かくのごとくに句は生気を得た。「何となく」という言葉を、作者はそれこそ「何となく」使っているのではない。情景は、その時間的な流れも含めて、これ以上ないという精密さでとらえられている。地味な句だが、私にはとても味わい深く、面白かった。『天衣(てんね)』(1999)所収。(清水哲男)


June 1661999

 隣席は老のひとりのどぜう鍋

                           大沢てる子

物というと普通は冬季のものだが、「どぜう鍋(泥鰌鍋)」は夏季。暑い最中に熱い鍋をフーフーやりながら食べるのが美味いそうだが、私は一度も食したことなし。少年期を過ごした山口県の田舎には、泥鰌など自然にいくらでもいたのだけれど、食べられるとは思っていなかった。どちらかというと、川遊びの友だちのような存在だった。イナゴについても、同様だ。幼い頃からの友だちを、誰が食べようなどと思うだろうか。食べたことはないけれど、野蛮な友人たちが美味そうに食べる姿は、何度も見たことがある。あれは多分、大勢でわいわい言いながら食べるほうが似合う食べ物のようだ。それを隣席の老人は、ひとりで黙々と食べている。そんな姿が気になる細やかな感受性を私は好きだが、でも、作者もまた誰かと一緒に泥鰌を食べているのだと思うと、なんだかシラける気分にもなる。近い将来、私が独り身になることがあったら、一度は泥鰌を食べに行ってみようか。隣席に作者のような心優しい人がいるかもしれないが、なあに、こっちは生涯を掛けての大冒険のつもりなのだから、むしろ妖しい殺気のようなものを感じてほしいと思う。無理だろうな。(清水哲男)


June 1561999

 蛍火のほかはへびの目ねずみの目

                           三橋敏雄

の年代くらいだと、句の意味はすぐにわかる。子供の頃、蛍狩りに出ていく前に親から必ず注意されたことが、そのまま句になっているからだ。飛んでいる蛍を追いかけるのはよいが、地上の草叢などで光っているものには気をつけろ、と。もちろん単なる蛍のこともあるけれど、蛇や鼠の目のこともある。毒を持つ蛇の目は赤く光るので、とくに注意が肝要だと言われた。さすがの我ら悪童連も、蛇の怖さはよく知っているから、草叢で光るものには一切手を出さなかった。しかし、暗やみで蛇や鼠の目が発光することはないだろう。あれは、大人たちが子供に身の安全を守らせるための方便としての嘘だったのだ。そんなことは百も承知で、作者はそれを本当のこととしてこのように詠んだ。詠まれてみると、なにやら不気味な世界が、蛍火の下で実体化してくる。そこに、この句の手柄がある。ここ数年、私の住む地域でも、懸命に蛍火復活のために努力している人たちがいる。難しい条件を満たす必要があると聞くが、究極のところ、蛇や鼠の復活なしに蛍火の完全復活はありえないだろう。子供の頃に毎夏、茫然とするほどにたくさんの蛍火の明滅を見た。私は、あの記憶で十分だ。『三橋敏雄全句集』(1982)所収。(清水哲男)




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